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アジアに密着 Asia-Wach Network


ASEAN外相会議(タイ)    (2019年8月17日)


ASEAN外相会議/タイ・バンコク(8月1日)
外務省ホームページより
 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、先月末にバンコクで外相会議を開いた。ベトナムなどが中国と領有権を争う南シナ海問題が話し合われた。
 終了後、中国の動きを念頭に「埋め立てや活動、重大な事件」について「一部閣僚から懸念が表明された」との共同声明を発表した。
 報道などによると、「深刻な懸念」との表現を共同声明に入れるかどうかで外相会議は紛糾したという。ベトナムは盛り込むよう要求したが、親中国のカンボジアなどが応じず、結局、「深刻な」は付けられず、単に「懸念」という表現に落ち着いた。
 何度もあったような気がした結末である。それでも当初の声明案より表現を強めたという。
 南シナ海における中国の対艦弾道ミサイル発射実験が明らかになり、最近、中国と領有権問題を抱えるフィリピンやベトナムとの緊張が高まっていたことが背景にある。この海域における米中対立の構図が再び鮮明化しつつある。

 ASEANは、「内政不干渉」が原則で、ミャンマーの軍事独裁政権の民主化運動弾圧など域内の重要問題に手を出せず、なすがままだった。欧米諸国が皮肉を込めて、ASEANを「NATO(ノー・アクション・トーク・オンリー=行動なし、おしゃべりだけ)」と指摘したこともあった。
 各種の会議は一年に1,000回とも言われ、意思決定は内政不干渉とともにコンセンサス(全員一致)が原則。性急な多数決が肌に合わず、結論が出るまで時間がかかり、NATO(ノー・アクション・トーク・オンリー)と揶揄されたのだろう。

 しかし、この「中小国の集まり」が、いまやアジア・太平洋の重い存在になっている、と思う。ASEANを核にした国際組織がいくつもある。
 例えば、ASEAN地域フォーラム(ARF)は、ASEAN10カ国のほか日中韓、米ロ、北朝鮮、EUなど多くの国・機関が参加している。毎夏、ASEAN外相会議に合わせて開かれ、安全保障問題などについて話し合われる。それぞれの国は、安保問題を巡る立場、政策は異なるが、「超大国が存在しないASEANに任せれば会議は実りあるものになる」との安心感があるのだろう。
 また、ASEAN会議の開催場所で、参加国同士の2国間会談が頻繁に開かれるのも特色だ。その時期における重要なテーマが話し合われ、国際的に注目される。今回も、日本と韓国の外相会談などが開かれ、非公式の接触・会談に至っては数えきれないほど行われただろう。ASEAN会議開催の場、という安心感があるからだ、と思える。

女性進出            (2019年8月1日)



米国下院議長に選出された
ナンシー・ペロシ議員(民主党)

 今回の日本の参院選挙は、自民党が改選前より議席を減らしたものの自民、公明の与党で多数派を維持した。衆参の2院制をとる日本では参院は「熟議」が期待される。解散のある衆院と異なり、参院議員には6年間の任期が保証され、政党間の対立とは距離を置き、政策を論じることが求められているのだ。その意味でも、フレッシュな女性の進出が期待された。
 結果は、28人の女性が当選し、過去最多だった2016年の前回参院選と同数だった。改選議席が124と前回より3議席多いため、当選者に占める割合は22・6%と前回(23・1%)より低かった。
 国際的に見ると、女性議員の割合が最も高い国は、アフリカのルワンダで、女性の比率は55・7%。20年ほど前は、トップ10は欧州が大半だったが、この5年間でアフリカ、中南米が高い比率を示してきた。
 日本は140位前後で、アジアは全般的に低い。東ティモール、フィリピン、ラオス、ベトナムが30位台から60位台に名を連ねている程度だ。

  スポーツ界での女性進出を調べると、「ブライトン・プラス・ヘルシンキ宣言」というのが目に留まった。スポーツでの男女平等を目指す国際女性スポーツワーキンググループによる提言で、1994年にイギリス・ブライトンで開催された「第1回世界女性スポーツ会議」で「ブライトン宣言」として採択。
 2014年にフィンランドのヘルシンキにて開催された「第6回世界女性スポーツ会議」で見直しが行われ「ブライトン・プラス・ヘルシンキ宣言」として新たに承認された。
 ◆スポーツの機会を男女均等に提供
 ◆女性が安心して使える施設の確保
 ◆役員やコーチなど組織の意思決定を担う女性を増やす
など10項目の行動計画から成る。
 これまで各国政府のほか国際サッカー連盟などの団体が署名。 日本でも2017年にスポーツ庁や日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会など主要5団体が署名している。
 最近、女子選手の活躍が目立つ日本だが、引退後に競技団体の役員になるケースは少ない。昨年10月の調査によると、加盟117団体で女性役員の割合は11.2%にとどまった。女性役員ゼロの競技団体もあったという。世界のスポーツ界が目指すのは、40%である。

 選挙に話を戻す。男女の候補者数をできるだけ均等にするよう政党に努力義務を課す「政治分野における男女共同参画推進法」施行後、今回が初の国政選挙だったが、男女均等への道のりは遠い結果だった。どの分野でも一定割合を女性にする「クオータ制」の導入を本格的に検討する時期にきているのでは。

デモ(香港)       (2019年7月20日)


主催者発表で103万人が参加したというデモ
 香港で中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案に反対する大規模デモが続いた。香港は1997年に英国から独立した際「1国2制度」が適用され、それが50年間続けられることを保証された。
 今回、その保証がなし崩し的に「無」になる、と香港民衆は感じ取り、改正案の完全撤回を求めている。さらには、民主的な選挙制度の実現なども訴え始めている。
 そもそも「逃亡犯条例」は、返還前に制定され、条例の対象から中国は除外された。香港は米英など20カ国と犯罪人引き渡し条約を結んだのだ。
 香港にはかつて中国大陸の騒乱・内戦状態から逃れた人々やその子孫が多く住むが、香港人が中国に引き渡された例は見当たらないという。香港にいる限り、中国の法律が適用されることはないという安心感があった。条例改正はそれが許されないことを示唆する。
 「1国2制度」にもかかわらず、中国はしばしば、香港の民主化の動きに介入してきた。その反発が2014年に学生らが中心部を占拠する雨傘運動につながった。中国に批判的な本を扱っていた書店店主らが失踪し、中国で拘束される事件も起きた。
 香港をビジネスの拠点にする外国企業も警戒を強めているという。外国人も対象になりうるからだ。中国関連で仕事をする外国人は中国の司法制度の閉鎖性、問題点を肌で感じている。
 それもそうだろう。香港は、アジアの自由な貿易の拠点、金融センターとして発展してきた。自由に歩き回れる観光地としても人気を集めてきた。

 日本がバブル経済で浮かれていた1980年代の終わりころ、「黒いマネー」の取材で香港に行ったことがある。当時、日本は株式・不動産市場が沸騰し、億万長者が多数、生まれた。転がり込んできた大金をどうするのか。「ごっそり当局に税金で持っていかれるのは困る」と一部の資産家は札束をバッグに入れ香港に運んだ。香港の街には日本人が駐在する「謎の事務所」があり、そこでペーパーカンパニーを作ってもらい、現地に銀行口座を開く。そこに持参した大金を預ける。
 場合によってはその口座から他国の銀行にも移し替えられた。その後、香港は税逃れの地の汚名を返上するため、こうした金の流れを厳しくチェックしてきたわけだが、それでもカネは規制の隙間を狙って動く。
 これは、香港の自由・カネにまつわる負の部分の一端だが、ヒト、モノ、カネが自由に動き回るリズム、機能、体質や人々の意識は返還後もそんなに変わるものではあるまい。
 香港には、それを支える自由な言論をはじめとする民主社会が必要、ということだ。

板門店首脳会談と日本    (2019年7月8日)



朝鮮中央通信(KCNA)WEBサイトから
 米国のトランプ大統領が、6月30日、朝鮮半島の南北軍事境界線上にある板門店で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と会談した。トランプ氏は現職の米大統領として、初めて北朝鮮の領内に足を踏み入れた。
 朝鮮戦争が始まったのは1950年の6月。対立の象徴である板門店における宿敵のトップ同士の出会いに世界は驚いた。
 トランプ大統領は、金正恩委員長と軍事境界線をはさみ、握手を交わした後、北朝鮮側に入った。そのあとトランプ大統領と金正恩委員長は、韓国の文在寅大統領も加わり、韓国側施設「自由の家」に。米・朝・韓の首脳が一堂に会するのは初めてである。

 かつて板門店の付近にはノル門里(ノルムンニ)という名の村が存在していたという。ノル門里は「板で出来た門のある村」という意味で、朝鮮戦争休戦協定の協議が行われていた1951年に、中国の代表者が会場を探しやすくする目的で近くの店に設置した看板名に由来している、という。

 軍事境界線は南北朝鮮の「分断ライン」で、板門店は、唯一、双方が接触できる場だ。会議場が置かれ、北側には「板門閣」が南側に「自由の家」と「平和の家」が設置されている。
 日本の新聞社のソウル特派員時代、この板門店で軍事境界線を往来したことが幾度かある。1990年代の前半は、南北融和のムードが漂い、首相会談がソウル、平壌で交互に開かれた。
 会談前の実務者協議は板門店の南北の施設で行われ、日本を含め、在ソウルの特派員が同行・往来した。朝鮮戦争で北地域において戦死した国連軍兵士(米軍中心で豪・比・タイなども参戦)の遺骨返還式もたびたび行われ、軍事境界線をまたいで取材したものだった。
 また、ここを観光客として、南北両側の施設から1週間足らずのうちにそれぞれ眺めたこともある。北京経由で平壌に入り、陸路、板門店に向かった。北側から、1週間前に訪れた南側の施設を眺めた。今度は、軍事境界線の向こうから米韓兵が双眼鏡などでこちらを監視している。奇妙な感じだった。

 こうした個人的感慨もあるが、板門店は、やはり特殊な場である。気持ちを高揚させる。トランプ大統領の親書やツイッターなどを通じて電撃的な首脳会談が実現し、停滞する非核化交渉の再開に向け、米朝双方で交渉チームを作り、協議を始めることで合意。トランプ大統領は金正恩委員長をホワイトハウスに、金正恩委員長は平壌にトランプ大統領を招待するとそれぞれ伝えたという。

 一方、この電撃的な米朝首脳会談で全く存在感がなかったのが日本だ。「無条件で金正恩委員長と向き合う」と日朝首脳会談をアピールしているものの「(安倍総理の)面の皮はクマの足の裏のように厚い」と以前よりも強い反発を受けている。
 5月の日米首脳会談で「トランプ大統領からも『全面的に支持する』『あらゆる支援を惜しまない』との力強い支持をいただいた」(共同声明)と誇らしげに語った言葉が、板門店の米朝首脳会談で一挙に崩れ落ちた。


イーストとウエスト     (2019年7月1日)


クアラルンプール
 マレーシアのマハティール政権が発足してから5月で1年が経った。劇的な政権交代だった。世論の評価は、マハティール首相の支持率は就任当初は70%台。それが最近は40%台へと落ち込んでいる。
 この1年間は、「汚職、不透明な財政など前政権の不始末の清算に奔走し、経済政策推進におけるリーダーシップ発揮といった持ち味が出せなかった」との指摘もある。

 そのマハティール首相が来日し、5月30日に日本外国特派員協会で記者会見した。1981年から22年間、首相を務め、再び政権の座に返り咲き、一帯一路を示し経済協力を進める中国に対して、コストが高いと前政権で結んだ契約を改めるなど、存在感をアピールした。
 なにしろ日本を模範とする「ルックイースト政策」を推進してきた人物だけに日本での注目度は高かった。
 この記者会見でも、貿易摩擦など米中の対立について「いかなるためにもならない」と批判、年齢(93歳)を感じさせない精力的な話しぶり、豊富な経験をもとにした指摘・主張は、聞く人を引きつけたようだ。
 「ルック・イースト政策」という「日本をはじめとする東アジアに学ぼう」とする精神運動。それがマレーシアの経済発展につながり、いまは先を行く主要国の後ろ姿も見えてきた。
 しかしマレ−シアは「ルックイースト」だけではない。近年顕著になってきたのは「ルック・ウエスト」の姿勢である。マレーシアの企業がサウジアラビアなどの企業との間で事業契約するなど中東諸国との結びつきを深めている。
 人口の約6割をマレー系のイスラム教徒が占めるマレーシアは、イスラム協力機構(OIC)に所属している。この「イスラムへの傾斜」の背景にあるのは、中東諸国を潤してきた石油収入だ。
 そして今後20年で世界の人口の3分の1に達するといわれるイスラム教徒、イスラム諸国の存在感の大きさだ。いまも北アフリカから東南アジアにかけての「イスラムの弧」には13億人のイスラム教徒が住む。当然、ヒト、モノ、カネ、情報が動く。巨額なマネーを「ルックイースト」で学んだノウハウと実績で呼びこみ、活用しようというのがマレーシアの狙いだ。「中東マネーのアジアでの一大集散地」になろうとしているのだろう。マハティール政権は「ルック・イーストとともにウエストも」と広角外交に視点を定めている。

巨大民主主義(インド)    (2019年6月1日)

IT企業の集まるバンガロール
 歴史的に東南アジア諸国は、ヒンズー教をはじめインドの文化的影響を色濃く受けてきた。だが、ASEAN(東南アジア諸国連合)結成以来、域内の結束と経済成長を重視したタイなど各国の視野からインドは、次第に遠ざかっていった。北の大国・中国の台頭もあり「西の大国は、影が薄い」という感じだった。
 しかし、IT(情報技術)が進化するにつれインドの存在感は、急速に増してきた。ASEANが、中国にあまりに気をとられているうちに「インド人の頭脳」が国際的に広く、高く評価されるようになったのである。
 インドがITで成長を続け、日本や欧州の企業が、その頭脳に注目し、積極的にIT人材を活用している。米国でもインド人技術者がIT関連産業の柱になっている。

 インド人のち密な頭脳について日本の商社マンがこんなことを言っていた。「彼らの頭の中には多くの『引き出し』があり、その奥の方からひょいとアイデアをひねり出してくる感じだ。日本人と構造が違うのかな」。脳の重層構造である。そこで培養されたさまざまなアイデアが絞り出されてくるのだろう。

 そのインドは、周辺で港湾施設を建設するといった、影響力を拡大する中国を警戒しながら、東南アジア諸国との経済関係強化を模索している。 昨年1月には、モディ首相は、首都ニューデリーで、ASEANと首脳会議を開き、海洋分野での協力関係強化で一致した。モディ首相はASEAN諸国との関係強化に取り組むと表明。貿易はすでに「25年間に25倍に拡大した。貿易関係をさらに強化し、経済界の交流促進に向け取り組む」と述べたという。
 こうしたASEANとの関係を含めた今後の近隣外交や、対中、対米関係の行方を大きく左右しかけないインドの選挙(下院定数545)が実施され、5月23日に一斉開票された。国土が広いため投票は4月11日から7回に分けて順次実施、有権者数が約9億人という「世界最大の民主主義国」を象徴する選挙である。
 結果は、モディ首相率いるインド人民党(BJP)が303議席を獲得し単独過半数を占めた。モディ政権の圧勝である。ただヒンズー至上主義のモディ政権下で、多様さへの不寛容が広がった側面も大きく、社会の分断が深まっている。2002年の西部グジャラート州のヒンズー至上主義者による暴動で、イスラム教徒を中心に多数の死者が出た。当時、州首相だったモディ氏が暴動を「黙認」したと指摘もある。
 モディ政権がさまざまな価値観にどう対応するかに心配が残る。 

巨大首都/ジャカルタ     (2019年5月19日)

ジャカルタ市内
 インドネシア政府は、最近、首都をジャカルタからジャワ島外に移転するとの閣議決定をした。ジャカルタ首都圏は人口大国・インドネシアの10%超の約3,000千万人が住む。
 住宅不足、地盤沈下による洪水被害などもたびたび起きている。それに世界最悪とされる交通渋滞。クルマの渦に巻き込まれ、空港まで時間がかかり、航空機に乗り遅れそうになった経験を持つ方も多いと思う。
 その渋滞度だが、ある調査によると、ジャカルタでは「渋滞によってブレーキを踏む回数」が車1台につき、年間で平均約33,240回という。郊外からジャカルタ市内へ通勤する人も多く、毎日何十万台という車やバイクが流入している。市内を走行するバイクの総数は、2015年時点で約1,800万台というデータもある。ジャカルタ市の人口約1,000万人よりもバイクの総数が多いのだ。
 その一方で、拡幅・延長工事など道路整備は進まず、公共交通機関も人口規模に比べ、貧弱だ。政府や関係省庁は、1台の車に最低3人は乗る、ナンバープレートの末尾番号による規制、などを試みたが、いずれも「焼石に水」だったようだ。

 実は2年前の2017年にも、国家開発企画庁長官が首都移転について検討を重ねていることを明かしている。長官は、首都移転の理由について「新しい経済中心地の構築」と説明、巨額の経済損失を生んでいる慢性的な渋滞などが移転の理由とされた。
 こうした身動きできなくなった巨体首都になったのは、やはり1998年まで32年間におよんだスハルト長期政権による「開発独裁」と、極端ともいえる「中央集権」の後遺症の結果だろう。インドネシアは無数ともいえる島々を抱え、約300もの民族が住み、数えきれないほどの数の言語が交わされている。中国系住民も多く、指導者には「多様性の中の統一」が求められてきた。
 スハルト氏には、「腐敗」、「縁故主義」などの批判も多いが、民族、宗教、言語といった面でそれなりの統治成果をあげてきたと思える。共通の言語としてインドネシア語は80%以上の国民が話す。困難な条件のもとでインドネシアは、「多様性の中の統一」に向かって曲がりなりにも進んできたといえよう。

 その統治方法は、中央(ジャカルタ)に権力と富・人材を集中させ、地域のパワーを抑えながら、軍事・警察による締め付けだった。そして、人口過密、深刻な交通渋滞、地方との間の経済格差などのひずみが残ったわけだ。
 ジャカルタ、ボゴール、デポック、タンゲラン、ブカシからなるジャカルタ首都圏(それぞれの頭文字からJabodetabek/ジャボデタベックとも呼ばれる)のインドネシア経済への貢献は膨大だ。それを維持しながら、新しい首都をつくる---財源確保が大変である。

光り輝く島(スリランカ)での惨劇   (2019年5月1日)


 スリランカで教会や高級ホテルをターゲットに、同時多発の爆弾テロが起き、日本人を含む約250人が死亡する惨事となった。外国人の死者も目立った。この日は キリスト教徒の「イースター」(復活祭)だった。
 スリランカでは、10年前まで内戦が続いていた。仏教徒中心のシンハラ人と、ヒンズー教徒が多くを占めるタミル人による民族間の争いだった。タミル側の武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」は爆弾テロを繰り返したが、2009年に敗北し消滅した。それ以来、治安は比較的安定していたが、「爆発」の一報に接した時、「内戦の火種がまだくすぶっていたのか」と思った方もいたと思う。

 今回の爆発は時間が経つにつれ、「イスラム国」(IS)など海外の組織の支援を受けていたスリランカのイスラム過激派「ナショナル・タウヒード・ジャマア」(NTJ)が関わっていた疑いが濃厚となった。スリランカでは、イスラム教徒は少数派だっただけに、この「宗教的過激組織による攻撃・奇襲」は、大きな衝撃を与えた。
 内戦が収まったスリランカを訪れる観光客は多く、国際的にも最近は「ぜひ行きたい国」の一つに選ばれるなど人気スポットになったが、まだ「南アジアにある遠い島国」のイメージは残るだろう。わたくし自身、東南アジアには住んだ経験があり、頻繁に訪れているが、この島国には行ったことがない。しかし、身近なところに、スリランカはあった。

 いま勤務する千葉県内の大学の近くに山武市という小さな市がある。この山武市が、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に出場するスリランカ選手団の事前キャンプ地(ホストタウン)になっていたのだ。山武市役所に勤務するスリランカ人職員もいる。市長もスリランカを親善訪問するなど友好関係が続いている。その縁で山武市を訪問した教育大臣が大学のキャンパスにまで足を伸ばし来学したこともあった。
 スリランカ出身の留学生との意見交換、学長ら大学関係者と面談し、留学生受け入れや、スリランカへの日本語教員派遣などで、今後も積極的に双方の交流を進めていくことが話し合われた。
 こうした地道な日本(地方)との交流を積み重ねながら「内戦の混乱から立ち上がったスリランカ」を示し、「インド洋の真珠」とも言われた美しさをアピールしてきた。その国名自体が「光り輝く島」という意味である。
 爆弾テロを起こす宗教過激主義が、いかにしてスリランカに浸潤したのか。南アジアの国々は激しい宗教的対立の歴史を持つ。そうした土壌に過激主義的な思想は浸潤し、広がりやすいのか。その厳しい状況を断絶してほしい。

インドネシアとマレー半島   (2019年4月20日)

シティ・アイシャー元被告
 北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の異母兄の金正男氏が2017年2月に殺害された事件で、マレーシア当局は、このほど、実行犯として殺人罪に問われていたインドネシア人女性のシティ・アイシャー元被告を釈放した。もう一人の女性、べトナム人のドアン・ティ・フォン被告も5月初旬には釈放される見通しだ。
 報道などによると、検察側は殺人罪の起訴の取り下げを求め、裁判官がこれを認め、まず、「シティ・アイシャーさんを釈放」と判断を下した。さらにドアン・ティ・フオン被告について、検察側は殺人罪から「危険な武器などによる傷害罪」に訴因を変更し、高裁は禁錮3年4月の有罪判決を言い渡した。フオン被告は、逮捕から2年以上勾留されている、などの理由で、釈放される、という。

 事件はクアラルンプール国際空港で起きた。大量破壊兵器に分類される神経剤を、マレーシアの首都の「玄関」で使った白昼の犯行は、世界に衝撃を与えた。両被告は、北朝鮮の工作員にだまされ、テレビ番組のためのいたずらだと思っていたと主張していた。
 国際的な大事件で、その概要から裁判の結果まで、メディアに連日、 大きく取り上げられ、補足するところはないが、背景を「深読み」す れば、マレーシア(マレー半島)とインドネシアとの歴史的関係や、ASEAN(東南アジア諸国連合)内のさまざまな感情が浮かび上がってくる。
 マレーシアの建国の歴史をひもとくと――1957年8月、マラヤ連邦は英連邦の一員として独立を達成した。1963年、マラヤはシンガポールなどと新たな連邦を結成し、マレーシア連邦が成立した。当時のインドネシアのスカルノ大統領は、英国主導の「大マレーシア構想」と反発し、インドネシア軍が、マレーシア領へ侵入するなどの事態となった。海兵隊兵士が、シンガポール中心部に爆弾を仕掛け、死傷者を出した事件も起こした。さらに1965年、マレーシアの非常任理事国入りに抗議するために国際連合の脱退までしている。そして当時のアジアの国連非加盟国との関係を深めていく。中国のほか北朝鮮、北ベトナムである。
 その後、スカルノ氏が失脚し、マレーシアでは1980年代にマハティール政権が生まれ、情勢が一変、インドネシアとマレーシア、シンガポールは、ASEANのリーダー役となった。

 今回の事件でのシティ・アイシャー元被告釈放に関し、マレーシアのメディアは「インドネシアによる釈放要求にマレーシアが合意した」と伝えており、たび重なる釈放要求にマレーシア側が最終的に合意した構図があることを示している。首相に返り咲いたマハティール氏の「配慮」もあるのだろう。


寛容と不寛容/モスク銃乱射事件   (2019年4月1日)


 3月15日 、ニュージーランド南部のクライストチャーチにあるイスラム教のモスク(礼拝所)で銃乱射事件が起き、多数の人々が死亡した。容疑者は、礼拝者を無差別に撃ち続け、モスク内は血の海と化した。襲撃の様子を装着したカメラを使い、インターネットで生中継する異常さだった、との報道もあった。容疑者の20代の男は、犯行声明で欧米社会への移民を「侵略者」と敵視していた。
 イスラム教徒の存在を、その敵視対象に直結させたのだろう。 一昨年のロンドンでのイスラム教徒襲撃テロに触発されたともいう。この事件に対し、アーダーン首相は「過激な思想を持った容疑者によるテロ攻撃だ」と述べた。背景には白人至上主義や排外主義がありそうだが、容疑者らにはイスラム教に対する「誤解」と見当違いな「おびえ」が根元にあった、ように思える。

 ニュージーランドと地理的にそれほど遠くないインドネシア。イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラム教徒人口を抱える。が、多民族国家で、言語と同様、宗教も多様だ。宗教分布が存在し、例えば、バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が優位にある、という具合だ。統計によると、イスラム教信者が87%を占めるが、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教信者も比率が少ないものの居住する。
 このインドネシアを含め「東南アジアのイスラムは穏健」と言われてきた。東南アジアに、アラブからインドを経てイスラム教が信仰体系として伝わるのは、9〜10世紀ごろ。沿岸の都市や島しょ部で中心的な宗教として定着するのは13世紀以降である。一方、この地、東南アジアにはすでに神秘的な精霊信仰、固有文化が根ざしており、イスラム教もこうした土着文化・信仰と妥協の上で受容されてきた、といえる。イスラム教が持つ固有の習慣なども薄められる結果となった。
 こうした歴史からインドネシアやマレーシアなどでは「アガマ(宗教)は海から来て、アダット(習慣・伝統)は山から来る」という言葉が残された。海から来たイスラム教などの宗教を巧みに取り入れ、伝統の中に融和させてきた「アジアの知恵」を感じる。他宗教、他民族、他言語に対する「寛容の心」がそこに芽生える。
 ニュージーランドの乱射事件の容疑者らは、こうした事情に疎い「偏見のかたまり」であり、「イスラム教=過激宗教」という一方的な図式しか描かなかったのか。それにより「不寛容な心」が芽生え、増幅し、モスク襲撃に至った、といえるだろう。


トンネル(ベトナムの変貌) (2019年3月20日)

ハイバン峠のトンネル
 3月初旬にベトナム中部のダナンとフエに行ってきた。今回の訪問で印象深かったのは、この地域の急発展ぶりだ。
 ダナンからフエまで旅行社手配の車を利用した。片道約2時間。10数年前に行った時は、3時間はかかっていた。道中の交通難所が、ハイバン峠だった。ベトナムの国土は南北に細長く伸びているが、この峠周辺で東西の間隔が狭まる。ハイバン峠は海に突き出ている岬を通過するため、霧がたちこめる日が多く、これが「海雲(ハイバン)」という地名のもとになったという。
 この峠を貫くトンネルが2005年に完成した。全長6.3キロ。4年の歳月をかけての工事で、東南アジアで最大級のトンネルである。日本の政府開発援助(ODA)が供与され、トンネルの入り口の壁には、日越の国旗が描かれ「友好のトンネル」を示している。これにより、行程が1時間短縮されたわけだ。

 ベトナムを南北に結ぶ大動脈の国道1号線だけに、その時間短縮、安全運転の確保は地域間の物流・交流促進につながると同時に、ハノイ地域、ホーチミン市周辺に比べ、発展が遅れていた中部地域の活性化を促した、といえる。
 中部地方の発展の遅れは、政治・軍事事情も影響してきた。ベトナム統一以前は、南北の軍事境界線(北緯17度)が敷かれ、ベトナム戦争時は激戦地だった。地形的にも国土が東西で一番、狭くなったところで、「ベトナムのアキレスけん」と言われていた。
 東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国の大陸部を貫く「東西回廊」の道路整備――タイ・ラオス側からハイウェイを延伸し、ダナンまでつなぐ道路建設計画に対して、ベトナムは当初、建設にそれほど乗り気ではなかったとの指摘があった。「この東西回廊を他国勢力に制圧されたら南北に分断される形になる」という安全保障上の懸念があったからだろう。
 しかし、この「東西回廊」は、ベトナムからインドまでを結ぶ新たな大動脈も視野に入る。インド、ミャンマー、タイで生産された工業製品などがダナン港に集まり、中国、韓国、日本へと続々と積み出されることになる。交通難所だったハイバン峠に近いダナンが、交通の要衝になる。

 そのダナン。市内を流れる川の岸辺は整備された遊歩道が続き、夜になると橋や川岸はイルミネーションで輝く。ベトナム戦争時に米軍が上陸した海岸沿いには、海鮮レストラン、カフェなどが立ち並ぶ。おみやげさん、高級ホテルなどは、フランス、米国、韓国人、日本、中国などからの観光客でにぎわう。それを眺めているとシンガポールにいる気がしてきた。


陸続き    (2019年2月20日)

タイ最北の地・チェンライの山岳地帯
(タイ国政府観光庁)
 タイ北部で行方が分からなくなっていた認知症の女性(59)が、自宅から約700キロ離れた中国・雲南省昆明で保護され、1月にタイに無事帰国した。女性の行方不明になったのは、昨年6月のこと。どのようにして中国にたどり着いたのか。
 メディアによると、女性はチェンライに住んでいた。「中国に住んでいる息子や親戚に会いに行った」などと話している。 タイ北部から中国に行くにはミャンマーやラオスの国境を越えなければならないが、どのように通過したかも分かっていない。昆明まで歩いた可能性が強い。
 中国の警察が1月下旬、昆明の高速道路を歩いていた女性を保護し、所持していた身分証明書から身元が判明、タイで行方不明となっていた女性だと分かった。女性は「自分で歩き続けた。国境を越えたことには気付かなかった。道中の店で食べ物をもらって飢えをしのいだ」と説明しているという。

 徒歩で陸続きのよその国へ――このニュースに、海に囲まれて暮らしている日本人の多くは、「感覚の差」を感じたと思う。この女性の移動についてもう少し「歴史」を掘り下げてみて考えてみたい。タイ族や周辺に住む民族の多くは中国南部に「ルーツ」があると言われてきた。女性が保護された雲南省に「シーサンパンナタイ族自治州」がある。人口のうちタイ族が三分の一を占める。中国南部の一民族だったタイ族がメコン川を回廊にして南下し、エネルギーを蓄えながら王朝を形成していった。ラオスのラオ族も同じような建国プロセスをたどった。
 タイ族がインドシナの歴史の表舞台に出てくるのは13世紀だ。タイ族、ラオ族など、そしてチュオソン山脈の東側ではキン族(ベトナム)が中国から南下、定着し、インドシナのいまの民族分布図の骨格ができた、といえるだろう。一方、そのほかの多くの民族はメコン川周辺の山岳部に次々と途中下車し、少数民族として生き続けてきた。いまさらながらメコン流域は、民族、文化、習慣が十字路のように交差する地域、と感じる。広大な中国と陸続き、さらにメコン川の水運があったことが、こうした民族の移動を促したのだ。

 そういえば、ベトナムの首都ハノイで開かれた米朝首脳会談に臨んだ北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長一行は、中国から陸路・鉄路でベトナム入りした。2日半がかりの長旅だ。航空機を使用すれば数時間で着くのに、と思う。
それよりも陸路を選ぶ、というのは警備、航空機の老朽化などの懸念があったかもしれない。が、「陸続きの気安さ」という島国の日本では分からない「皮膚感覚」が働くのだろう。 

市場からの警告 (2019年2月10日)

BTS車内でもマスク姿が目立つ

よどんだ大気に包まれるバンコク市内
 最近、東アジア各地で大気汚染が深刻になっている。韓国のソウル首都圏では、「PM2.5」による大気汚染が過去最悪水準となる日があった。「PM2.5は中国から飛んで来た」との見方が韓国で強いが、中国政府が「韓国内で排出された」と反論。韓国側が再反論するという責任のなすり付け合いに発展している。
 ソウルの1日平均のPM2.5の濃度は、この日、1立方b当たり122マイクログラムを観測。注意報の基準となる75マイクログラムを大幅に超えて過去最悪に。「首都圏非常低減措置」が発令され、公共工事や公共機関の車両の運行が一部制限されたという。
 また、バンコクでもこの1月30日、大気汚染悪化により、バンコクの437校が休校となった。子供たちを、危険なPM2・5などを含む汚染スモッグから守るためである。バンコクでは「公害管理区域」として、基準を満たさないディーゼル車の利用や有害なゴミの焼却などは禁止されることになるという。

 問題のPM2.5は、日本では「微小粒子状物質」と呼ばれる。微細な汚染物質で、呼吸器系など健康への悪影響が大きい。粒子小さいので、長く大気中を浮遊しているために、発生源から離れた場所でも影響を受ける、というやっかいな存在だ。大気汚染の拡大・グローバル化である。この事態に目を向け、想起したいのは、国連が提唱する持続可能な開発目標(SDG's)の17の目標と169のターゲットである。グローバルビジネスの世界では、これに沿った事業活動でなければ、いずれ市場から退場させられかねないという危機感が浸透しつつある。
 
 SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だ。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年〜2030年の15年間で達成するために掲げた目標だ。17の目標のいくつかを紹介すると「すべての人に健康と福祉を」(3)、「エネルギーをみんなに そして」クリーンに」(7)、「住み続けられる まちづくりを」(17)などだ。
 日本でも、企業の工場などからの汚染物質の排出や騒音などがまき散らかされ公害が深刻だった。国連の掲げたSDGsは、地球環境をこれ以上悪化させないために、知恵と技術力で「発展と環境保全」の両立を視野に入れた「持続可能な開発」を目標にしたものだ。17の目標と169のターゲットに向かって事業が進められているかどうか、が企業・組織に問われているわけだ。まして、大気汚染を助長するような「後退行為」は許されるはずもいない。
 

枯葉剤 (2019年1月25日)

「ドク ニホン」の前に立つ
グエン・ドクさん
 ベトナムのグエン・ドクさん(37)のニュースが何本か報じられた。ドクさんは、ベトナム戦争中、米軍が撒いた枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた。「ベトちゃんドクちゃん」の弟である。南部ホーチミンで、チャリティーのマラソンイベントに参加した、という。枯れ葉剤の被害者救済や啓発を目的にしたイベントで、障害のある現地の子供たちとともに、松葉づえをつきながら約3キロ、歩いた。
 ドクさんは、約30年前に日本の支援で分離手術を受けたことで知られる。障害児学校から中学校に入り、その後、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、病院の事務員となった。一方、兄のグエン・ベトさんは脳障害で寝たきりの状態が続き、2007年、26歳で死去した。
 二人が生まれたのは、中部高原のコントゥム省。この地域にも枯葉剤が多量に散布された。母親は、ベトナム戦争終結後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。枯葉剤がまかれた井戸で水を飲んだという。

 この深刻な後遺症については、実際に取材したことがある。ハノイに障害児たちの施設「平和村」があった。ここには、ベトナム戦争だけではなく、ベトナムのカンボジア侵攻(1978年)の際、カンボジア国境付近で残留枯葉剤を浴びたベトナム軍人の子どもたちがいた。当時、8歳だった男の子は、本人が直接、浴びたわけではないが、生まれつき両足のひざから下がなかった。父親は軍人として動員され、長期間、カンボジア国境のタイニンの密林地帯に駐屯。この周辺は米軍が南ベトナム解放民族戦線の拠点をたたくため、大量の枯葉剤をまいた、といわれる。この父親は、残留していた猛毒の枯葉剤を浴びたのだ。
 取材した施設「平和村」には、「難しいことでも意志さえあれば、実現できる」という、ホーチ・チ・ミンの言葉が、標語として掲げられていたのを記憶している。なんの罪もない、障害を持つ子供たちへの「建国の父」からの励ましである。この激励の言葉通りに困難を克服してきたのがドクさんだろう。
 ドクさんに関するもう一つの話題は、ホーチミンに日本風の飲食店をオープンさせたことだ。報道などによると、ドクさんは世話になった日本、支援者を大切にし、これまで40回以上訪日しているが、ベトナムでも交流する場を作りたいと考えていた。店では日本のうどんや、ベトナムの麺料理などが食べられるという。店名はずばり「ドク ニホン(Duc Nihon」。日本への思いが伝わってくる。



ヒンドゥー寺院 (2019年1月10日)

  「ラーマ(ヒンドゥー教の神の化身)よ、万歳」。昨年12月、インドの首都ニューデリーで行われたデモで、参加者からこういう叫び声があがり、政府に対し、ラーマが誕生したとされる北部アヨディヤでの寺院建設が強く求めたという。
 インドでヒンドゥー至上主義者の活発な活動が収まらない。今春の総選挙を前に対立軸の宗教問題を前面に出すことで、モディ現首相の与党でヒンドゥー至上主義政党の「インド人民党」(BJP)の支持拡大を図る思惑があるとみられる。
アヨディヤを巡っては1992年、16世紀に建てられたモスク(イスラム礼拝堂)について、ヒンドゥー至上主義者が「モスクができる前はヒンドゥー教寺院があった」と主張しながらモスクを破壊し、これに反発したイスラム教徒とヒンドゥー教徒の暴動が全土で発生し、計約2000人が死亡した。
 それでもこのモスク跡地への寺院建設の要求は収まらず、2014年の前回総選挙で、BJPは公約で寺院建設を掲げて政権を奪取した。それがいまだ実現していない。もし、今度の選挙でイスラム教徒が多く支持する野党の国民会議派が政権を担ったとしたならば、さらに実現が難しくなる、というのがデモ参加者の焦りの心情だろう。
 イスラム教徒はインドでは少数。当面は静観するとみられるが、突発的な衝突がきっかけで宗教暴動につながる危険性はある。

 宗教暴動といえば、2002年1月に現地取材をしたことがある。ヒンドゥー教徒の乗った列車がイスラム教徒に放火された事件をきっかけにした西部グジャラート州での暴動である。1,000人以上の死者が出て、軍が中心都市アーマダバードなど4都市に計約3,000人の兵士を配置したほどだった。死者の多くはイスラム教徒で、当時、現地から「グジャラート州の最大都市アーメダバード宗教暴動に関しては、陸軍部隊の増員などで一応、沈静化の方向に向かっている。 列車放火事件に対するヒンドゥー教徒の報復は、都市部では主にイスラム教徒が経営する商店やモスクなどが対象となった。
 一方、地方ではイスラム教徒の住居への襲撃が相次ぎ、一家全員死亡などの悲劇が起きている」という記事を送った。このグジャラート州といえば、インド独立の父で非暴力主義のマハトマ・ガンディーの誕生の地であり、ヒンドゥー・ナショナリストと言われるモディ首相が、暴動当時、グジャラート州を州政府首相として統治してきた因縁の地でもある。
 この暴動について、「モディ氏は、暴力を止めるのに対応が不十分だった」との批判がくすぶり続けているという。宗教対立そして暴動の火種はいまも残っている。


Asia-Watch Network

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