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アジアに密着 Asia-Wach Network


若者の抵抗(タイ、香港…)
   (2020年12月22日)

  タイの反体制デモが続いている。デモ隊の国王批判は先鋭化しており、治安当局との緊張が高まっている。
 タイの憲法は国王の不可侵性を定め、王族を侮辱・中傷すると禁錮刑が科される不敬罪がある。それでもデモ隊は国王の巨額資産や権限拡大に抗議し、不敬罪の廃止を含む王室改革を要求。学生の政治要求の高まりで運動参加者は増加してきた。

 香港でも抗議デモが高まりをみせた。裁判所は、2019年6月にあった警察本部への抗議デモを巡り、
無許可集会扇動罪などで有罪判決を受けていた民主活動家、周庭氏に禁錮10月の量刑を言い渡した。
 現地メディアによると、周氏は上訴申立期間中の保釈を申請したが却下され、収監された。裁判所は、同罪などに問われ有罪判決を受けていた黄之鋒氏と林朗彦氏の両民主活動家にもそれぞれ禁固刑を言い渡した。3人とも20代半ばの若者である。
 タイも香港も抗議デモの未来への展望は明るくないが、共通しているのは既得権益を持つ層への「若者の怒り」だ。

  「シルバー民主主義」という表現がある。有権者に占める高齢者(シルバー)の割合が増し、高齢者層の政治への影響力が増大する現象である。選挙に当選したい政治家が、高齢者層に配慮した政策を優先的に打ち出すことで、若年層の意見が政治に反映されにくくなり、世代間の不公平につながるとされている。
 年金、医療、介護など高齢者向けの支出が増える一方、教育や子育てなどの分野に充てられる費用が縮小し、勤労世代への負担が増加するという世代間格差が拡大している。20歳前後の将来世代への影響も懸念されている。
 こういう心理が、ここにきて世界のいたるところで若者の間に生まれているのではないか。

 加藤勝信官房長官は記者会見で、香港での裁判について「香港が享受してきた民主的、安定的な発展の基礎となる言論の自由にもたらす影響について、重大な懸念を強めている」と述べたが、「ひとごと」ではない。
 就職氷河期で苦労し、いまは大学のオンライン授業に不満を募らせ、アルバイトもできない。それ以外にも若年層のうめき声が伝わってくる。タイや香港の権力者・既得権層への怒りと不信は日本でも通底するものがあるように感じる。


新・駐日大使(韓国)
   (2020年12月8日)

  韓国青瓦台(大統領府)は、駐日大使に、姜昌一(カンチャンイル)韓日議員連盟名誉会長(68)を充てる人事を内定した。姜氏は東京大学に留学した知日派で、日韓関係の改善に向け、政界や市民社会のパイプを活用する狙いがあるとみられる。
 青瓦台関係者は「日本の新政権発足を契機に関係を調整するという文在寅大統領の意思が反映されている」と説明。姜氏については「韓日議連幹事長と会長を歴任した」と評価し、「今回は外交官より政治家出身が適している」と説明している。

 姜氏はソウル大学卒業後、1980年代に東大に留学。博士号を取得した。 文政権では、与党「共に民主党」内で日韓歴史問題に取り組み、徴用工問題の解決策をまとめる役割を担っていた。
 その幅広い人脈と見識が期待される一方で、過去には「反日」の言動を繰り返したこともあり警戒感も出ている。
 韓国国会議長の天皇陛下(当時。現・上皇)への謝罪要求について、姜氏は去年2月に「議長は常識的な話をしたと思う」「韓国人たちは、戦争のあらゆる責任は天皇にあると思っている」と発言している。
これに対し、当時の河野太郎外相は「無礼だ」と批判した。

 この人事に相前後して中国の王毅外相が来日した。王氏も2004年9月から2007年9月21日まで駐日中国大使を務めている。
 帰国後は外交部の政策研究担当の常務副部長に就任、外相への道を進んだ。9月の菅内閣発足後、中国要人の来日は初めてで、茂木外相との日中外相会談が行われた。菅首相との会談も設定された。新型コロナウイルスの感染拡大で停止している短期出張や中長期滞在のビジネス関係者らの往来を、11月中に再開することで合意した。
 茂木氏は「両国の安定した関係は地域、国際社会にとって極めて重要だ」と強調し、王氏も「各分野での協力を深化させるべきだ」と応じた。この友好ムードは、経済関連分野に限られた模様で、日本側は尖閣諸島(沖縄県)周辺への領海侵入など「力による現状変更の試み」を自制するよう求めた。
 王氏も記者団の前で自国の立場を一方的にまくし立てるなど、日中を取り巻く懸案事項では改善の兆しは生まれなかった。しかし、両外相は、閣僚級で幅広い経済課題を協議する「日中ハイレベル経済対話」を開催することでも一致した。尖閣諸島については、海洋問題を話し合う高級事務レベル海洋協議を開くことになった。
 対立する中でも、双方がぎりぎりのところで歩み寄る姿勢が思い浮かぶ。これも王氏が駐日大使時代に培った知識と経験から生み出されたなんらかの「知恵」がもたらしたものだろう。
 
 韓国の駐日大使が外相や青瓦台の外交担当者になったケースもある。その人物が、日本の大衆文化の解禁に道を開いたこともあった。姜氏は日本でどのような役割を果たすのか注目したい。


軍人と政治(ミャンマー)
   (2020年11月19日)

  ミャンマーでアウン・サン・スー・チー国家顧問が率いる国民民主連盟(NLD)が政権を獲得してから
初総選挙が行われた。NLDは過半数の議席を確保したようだ。選挙では上下両院(定数計664)のうち、
軍人枠の166議席などを除く476議席を争った。
 上下両院議員の投票で決まる大統領を単独で選出するには、改選議席と軍人枠の計642議席の過半数の322議席が必要だが、投票結果にNLDは「次期政権を樹立できる」と説明している。
 2015年の前回選挙では、NLDが国軍系党(USDP)に圧勝し、民選枠の約8割を獲得。翌2016年にNLD政権が誕生した。
 「民主化と軍人・政治」といえば、ASEAN(東南アジア諸国連合)の中ではインドネシアが参考になる。
スハルト時代は「軍の二重機能」といわれ、国会に任命議席を持ち、地方に配置された軍管区は村レベルまで監視を行っていた。
 民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着した。しかし国軍は非公式には依然、発言権を維持している。退役軍人は政権に入閣している。また国軍は予算の半分以上を自己調達している。軍人ビジネスもなくならなかった。
 民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。多数の州や県が全国で新設された。2005年には地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。
 大統領に就任したジョコウィは、直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、その2年後2014年に国政の頂点に立った。ジョコウィの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。

 ミャンマーはどうなるのか。多くの軍人枠が残るが、民主化の進展とともに議会の中で「軍人色」は、次第に薄まっていくだろう。それがスーチー氏の課題であり、全力で取り組むとみられる。
 大きな問題は、政治人材の供出源ともいうべき、地方における民主化である。この国には、ロヒンギャなどのほか少数民族や難民、宗教などの対立、問題が多い。
 ミャンマーの新政権は、来年3月に発足する見通しだが、少数民族武装勢力との対立解消、軍に大きな権限がある憲法の改正など、新政権が直面する課題は少なくない。



財閥(韓国)
   (2020年11月2日)

  「財閥」を韓国語で「チェボル」という。その代表的な財閥のサムスングループの李健煕(イ・ゴンヒ)サムスン電子会長が亡くなった。78歳だった。心臓病で倒れてから入院生活を続け、グループの経営は李氏の長男である李在鎔(イ・ジェヨン)・サムスン電子副会長が行っており、死去による経営への影響は当面ないと見られる。
 その死を韓国の大手紙「朝鮮日報」は「韓国のサムスンを世界のサムスンに育てあげた」「勝負師だった」と1面トップで大々的に報じ、連日何ページもの特集記事を組むほどだった。

 李氏は1942年、大邱市生まれだが、日本の中学校を卒業し、大学も早稲田大学を卒業。1987年にサムスングループ創業者である父の李秉普iイ・ビョンチョル)会長が死去すると経営を引き継ぎ、2014年に病気で倒れるまでの27年間で半導体やスマートフォンなどの分野において、韓国を代表する世界企業にまで成長させた。
 この間サムスングループの売上高を約40倍、利益は約50倍にまで増やした。
 李氏の経営は、スピード・人材重視といった言葉で象徴される。品質を追求し、将来有望な分野に目をつける先見の明を持っていた。優秀な人材を率先して雇用し、トップダウンの経営手法でサムスングループの繁栄を築いた。
 李秉侮≠ニ並ぶ財閥の創業者といえば鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が思い浮かぶ。ソウル在勤中(1990〜95年)に直接、取材した。日本語がペラペラで、自身の「成功物語」を熱っぽく語った。1915年、現在の北朝鮮の内の貧しい農家に、生まれた。家出を繰り返して1934年、京城(現ソウル)の米屋に就職し、やがて自動車部品修理業を始めた。解放後の1946年、ソウルで自動車修理業、建設業を開業。
 朝鮮戦争時に米軍の工事などを受注し、会社は発展。さらに朴正熙政権に重用され、ソウル〜釜山間の京釜高速道路など大規模プロジェクトに関わり、韓国財閥の雄、現代グールプの基礎を構築した。元大統領の李明博氏は、現代の出身だ。

 ここで韓国財閥の発展の過程をざっとみると、野心を持った創業者が朝鮮戦争後の復興に力を入れ、
朴政権に目をかけられ、日本企業を手本に「ハミョン・テンダ(なせばなる)」の精神で、グループ各社を育て上げた――といえるだろう。
 しかし、時代は変わる。朴政権以後、歴代政権の中には「反財閥」の政権があり、厳しい国際競争・世論の動向もあり、財閥の在り方が問われている。李健煕・サムスン電子会長の死去は、まさにその時だった。


菅総理外遊
   (2020年10月25日)

 菅義偉首相は、就任後初の外国訪問先にベトナムとインドネシアを選んだ。南シナ海問題などを巡る米中対立が深まる中、東南アジア諸国連合(ASEAN)との連携を深め、「自由で開かれたインド太平洋」構想への協力を呼びかけるのが主眼だ。
 ベトナムでグエン・スアン・フック首相、インドネシアではジョコ大統領と会談。中国が進出を強める南シナ海問題を念頭に法の支配を重視する日本の方針を伝え、本格的な経済活動再開につなげる狙いがある。
 ベトナムは今年のASEAN議長国で、インドネシアは東南アジアで最大の人口を有する。ともに日本企業が多数進出している。安倍晋三前首相も2012年の第2次内閣発足後、最初の外遊でベトナム、タイ、インドネシアを歴訪した。菅首相は就任後、米国、中国、ロシアなどの首脳と電話協議を進めてきたが、対面での会談は初めてだ。

 日本の首相のインドネシア訪問といえば思い起こすのは、1974年の田中角栄首相(当時)が見舞われたジャカルタ暴動である。当時、東南アジアでは、日本の急激な経済進出に反発する声が強く、ジャカルタでは日系の代理店やショウルームなどが焼き討ちされ、首相は滞在先からヘリコプターで空港まで脱出した。しかし、これを契機に、のちにASEANとの友好親善を誓った「福田ドクトリン」(1977年・福田赳夫首相時)が打ち出された。「日本は軍事大国にならない、心と心が触れ合う関係の構築、ASEANは対等なパートナー」という外交原則である。
 その後の緊密な関係構築の基礎になる。いうまでもなく現地を訪問し、首脳同士が直接、顔を合わせたやりとりを行うということは大変重要である。

 もう一つ、その典型的な例に、ベトナムと米国との関係をみる。米国とベトナムは、ベトナム戦争を戦った仇敵だったが、ベトナムの南北統一後、約20年を経て、1995年7月に国交正常化した。1997年に双方は大使派遣するが、その後は足踏み状態が続いた。
2000年11月になって、クリントン大統領(当時)が、ベトナム統一後、米大統領として初めて訪越。直接、会談したことで、トップ同士の信頼が構築されたのだろう。それからは、米越関係は経済面を中心に急速に進展した。2005年には当時のカイ首相がベトナム戦争後、首相として初めて訪米している。
 2000年のクリントン訪越をハノイで取材した。沿道には多くの市民が出迎え、熱っぽい歓迎ぶりに驚いた。手放しの歓迎、といって良かった。その後の両国関係の進展ぶりが浮き彫りにされていたようだ。
 今回はコロナ禍での外遊というこで、菅総理は外交儀礼上、必要なところ以外はマスクを着けたり、握手を避けたりするなど異例ずくめの外遊デビューとなった。

タイ民主化運動
〜今、何が起きているのか?〜
   (2020年10月5日)

 (2)運動の底流に多重債務の広がり
 今回の反政府運動の高揚の真因は単純にいえば生活苦にある。先日、法務省特捜部のセミナー「コロナ禍で自殺ケースが急増、子どもの犯罪(覚せい剤がらみ)の増加、これにどう対処するか」を取材した。
 タイはコロナウイルス感染抑制策は国際的にも「最も成功した国」とされ、タイ人もそれを誇りにしている。しかし、経済は大打撃を受けた。このまま推移すると1,000万人の失業者が出る恐れがある。
 一昨年ヤミ金、サラ金の多重債務でどうにもならず公的な援助が必要な人は名乗り出るようにと政府が公布したら全国で1,000万人以上が応じてきた。人口6,800万人、約2,000万世帯のタイでこの数字はとてつもない事態が起きているということだ。
 多重債務者救済も道半ばにしてコロナウイルスに襲われて、その救済は進まず、またもヤミ金に手を出すしかないひとが増えていると聞く。
 学生総数は現在では170万人。1970年代前半、つまり学生運動が活発化していた時代は6万人もいなかった。かつて大学生はエリートであり、それを自覚し、社会も認め、その発言は影響力が甚大であった。だから1973年の民主化デモには各階層の計40万人が結集し、前国王も仲裁に乗り出し国を動かしたのである。
 現在の学生運動はエリートのそれではなく、大衆の運動である。中流以下の家庭の出身も少なくなく、
学費が捻出できず自主退学するケースが目立ってきている。
 今年の新卒者は殆ど失業状態となっている。来年以降の卒業予定者は、裕福な子弟を除いて、毎日のように就職の心配をしている。就職氷河期と軍部支配の政治体制への不満がからんで、今の学生運動高揚をもたらしている、と私はみる。

 現在の状況ではクーデターはないだろう。市民の噂でもちきりとなり、内外マスコミもその可能性を論じている。だが、その条件はまずない。
 第1に、大義がたたない。王室批判を口実とするなら、火に油をそそぐことになる。
 第2に、国際的な経済制裁を招きかねず、それは経済の自殺行為になる。
 第3に、王室改革、王室批判はタブーを破るときは困難だが、ひとたび口にしたら、今度は言うは易し行うは難しである。学生主導の反政府運動の主体的力量はまだまだひ弱である。
 第4に、ネット社会の発展と浸透は軍部の暴走を抑制するに違いない。学生の層は誰よりも携帯電話を駆使している。学生リーダーの周りには現場の瞬時をも逃さず撮影し説明を付けて直ちに友人へ、グループへ送信することに熟練している。

 日本のマスコミは学生リーダーらの「王室批判」「王室改革要求」焦点を当てて報道している。私が見るところ、タイ社会の実態は、その要求を冷静に検討する段階には到底なっていない。
 まず、タイの歴史は「王国の歴史」である。タイの統一国家を樹立したスコタイ王朝、次いでアユタヤ王朝、この時代の外敵はビルマであり、タイ人にとっての「戦争」とは泰緬戦争のことを指す。
 ビルマに滅ぼされてからはトンブリ王朝、そして現在、ラーマ10世まで続いているチャクリ―王朝。
 この国史を学校教育、家庭教育、マスコミ、観光地(王朝の遺跡、遺物)、映画演劇、博物館で幼少時から一生教わっていくのである。大学卒業も必要単位をとっても王室からの証書授与があって初めて世に誇れるというのが社会通念となっている。
 勿論いつの時代でも「反逆」の先駆者は一握りのグループから始まる。だから若き活動家らがタブーに挑戦し公に訴えた意義は大きい。だが現在ハイライトを浴びている学生リーダーらの動きをみていていくつもの疑問が浮かんでくる。
 1970年代の学生運動は、農村支援、労働条件向上、組合組織化にも取組みスケールも大きかった。
リーダーの見識も高くカリスマ性もあった。果たしていまのリーダーはどうだろうか。
 経験、理論・哲学といった奥行きがあるのか。ネット社会の利便性、マスメディア受けする演出が先走りして、地道な足場固めの活動はどうなっているのか。学生の経済困難、就職氷河期、政治要求の高まりで
運動参加者は増加してきたが、これからはどうなのか。「学生主導」が変容、変質していくのではあるまいか。
 9.19の舞台設営、参加者の階層、運動資金の出所、演説のなかみとスローガン等々冷静にみていくと
疑問はふくらむ。その集会から一週間、二週間と経過しただけで既に支持層のなかに意見の相違、組織内部の亀裂がはっじまっているではないか。そうなると余計に運動を先鋭化させ、逮捕され「殉教者」として同情、支持を広める戦術を選ぶことになはしないか。
 1973年当時は学生活動家逮捕に対する広範な批判、その学生らを「息子、娘のように」支援する
国民の声があった。それは学生の訴えに国民大多数の共感と同調をひきおこす力が備わっていたからだ。
 半世紀近くタイ社会をみてきた私の経験からは、これからの長いジグザグの困難な道のりを予想せざるを得ない。

(宇崎真 アジア・ウオッチ代表/在バンコク)


タイ民主化運動
〜今、何が起きているのか?〜
   (2020年9月29日)

 (1)「王室批判」の背景にあるもの
 雨模様のなかMRT線 (Mass Rapid Transit) のサナームチャイ駅下車、チャオプラヤ川沿岸のタマサート大学に向かう。この一帯は見事な伝統建築が楽しめる散歩道でもある。と同時に、タイ現代史の荒波が襲った政治の舞台でもあり、安堵と緊張が交差する場所でもある。
 1974年の4月、私は日本電波ニュース社(NDN)のベトナム戦争特派員生活(1971〜1973年)を終え、
短いインターバルの後、バンコク特派員の社命を受けた。NDNは戦後「東西対立」の共産圏、社会主義陣営の取材を特色としていた。ベトナム戦争も収束に向かい「西側諸国」に取材網を拡げていこうとの経営方針の最初の実験場でもあった。
 その当時はインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)の共産勢力の伸長が著しく、タイ国内でもその影響もあって左翼の運動が活発化していた。
 1973年のタノム独裁経験を倒した立役者としての自信を深めた学生運動は社会的影響力を強めた。
援農活動や農民組合結成、労働運動支援、労働争議の仲介役にまで活動を展開し、タマサート大学では「社会科学評論」「マルクス」の販売、学習会が繰り返された。まさにタイ民主主義が花咲こうとした時期であり、活動家らは半ば公然と「王室廃止の是非」を議論していた。
 それに対してISOC (Internal Security Operations Command/タイ国内治安維持部隊、前身は共産主義制圧部隊) は警戒態勢を強化していた。インドシナで次々に西側の三都(プノンペン、サイゴン、ビエンチャン)が陥落、とりわけ1975年12月に600年続いたラオスの王制があっけなく廃止されたことがタイ王室の不安をかきたてることとなった。
 それ以降、タイの前国王(ラーマ9世、プミポン・アドゥンヤデート/1927年〜2016年)と王室はタイを防共の堅固な国家とすべく国境防衛組織を CIAの援助の下に構築し、「王制、仏教、民族の尊厳」の三つを
擁護する大々的なキャンペーンを展開したのである。学生運動をはじめとする左翼への敵対勢力が育成され、全国に組織されたボーイスカウトもそのなかに組み込まれていった。その流れのなかで、1976年10月6日、タマサート大学構内で「血の水曜日事件」が起き、軍部のクーデターにつながった。タイ民主主義の実験は窒息させられた。
 この路を歩くと、タイ現代史の場面場面が否応なしに頭に浮かんぶ。

 9月19日、治安当局の警戒が強まるなか、タマサート大学のキャンパスではなく、サナームルアン(王宮前広場)で集会は始まった。トラック上の学生リーダーらが「この王宮広場を新たに人民広場と命名しようではないか」と叫びながら進む。歓呼がこだました。学生主導の集会といわれたが、実際には年配者を含む一般庶民の参加者の方が多数を占めた。
 メイン会場を取り囲むようにして各種のグッズ売店が並ぶ。古書販売店には「10.6無実の犠牲者」「権力を笑う」「同じ空の下―君主の病―」「クーデターのマニュアル」「君主制とタイ社会」「マルクス伝」といった本がならんでいる。
 「赤色同志」というグループは1976年以降、権力により抹殺された95名の人物が次々に斃れていくパフォーマンスを小雨の道路上で挙行した。このグループは「初めて公演」だと上気していた。タイ語と英語で書いたプラカードには「我々の税金は国民のため、悪魔のためのものではない」「人民を殺したやつは地獄に行け」「ストップ黒い権力 我々に必要なのは公正な未来」といったスローガンも掲げられている。
 「人民広場」で1973〜76年にかけNSCT (タイ全国学生センター)の中心グループにいた元学生活動家に出会った。当時の話ではずみ、著名な活動家の名を出しあって意気投合した。
 「いまでも活動家とは親しく付き合っているよ」という。私 が「彼は弾圧を逃れジャングルに入り、そこからラオス領に行っていた。私はラオスで会った」と話したら、日焼けした顔で目を丸くしてケッケッケを歯をむいた。「で、この運動をどうみているの?」と尋ねると「時代は変わったね。今は誰もがビデオを撮りレポーターになる」「平和的にしかできないよ」。元ジャングルの闘士は楽天的であった。



食べ残し禁止(中国)
   (2020年9月7日)

 中国の習近平主席は、最近「飲食の浪費は深刻で、心を痛めている。食糧の安全保障については、危機意識を持たなければならない」と訴え、「食材を浪費する行為の根絶を目指す」という方針を打ち出した。要するに“食べ残し”行為を見直し、節約習慣を徹底する“食料節約”である。
 北京市は6月、「レストランでは適量を注文し、残さずに食べること…」などを“文明行為促進条例”で定めた。
 2018年に行われた、ある調査によると、推定値で中国では年間1,800万トンの食糧が浪費されているという。5,000万人が1年間食べられる量に匹敵する。
 中国では相手をもてなす際、食べ切れない量の料理で歓待する習慣がある。客はテーブルに満載のごちそうを腹が膨れるまで食べるが、全部食べ尽くしては、歓待した側に「もの足りなかった」という意思表示につながる、と考えられてきたからだ。

 これと同じような話を新聞社の特派員として1990年代に5年間、駐在した韓国・ソウルで見聞した。例えば、韓国で焼き肉屋に入る。メインの肉以外に、さまざまな種類のキムチやスープなど多くの前菜や副菜が出てくる。これらは、ご飯も含め、お代わりが自由だ。その料理の重さで「お膳の脚がこわれるほど」の満載ぶりだ。
 ついでながら韓国では「割り勘」は好まれない。勘定は上司や先輩、誘った方が払うケースが多く、日本ではレジの前などでよく行われる「割り勘」はみみっちい、との感覚だ。料理の出し方も豪快さが好まれるわけだ。韓国の友人宅に招かれ、食事を頂戴したことがあるが、日本ならば「出されたものは残さずに食べる」がエチケット。
 しかし、韓国では、中国と同様に、「もう満足です。おいしかった」と少し残す。全部食べると「料理は物足りなかった。もっと食べたかった」ということになる。
 この時期は、ソウル五輪(1988年)の直後だった。メディアなどで「食べ残しを含め韓国の一人当たりの
ゴミの量は世界有数」と指摘され、提供する前菜などの節約が叫ばれていた。「食」については、いまでも、食堂などでの多量提供の習慣は続いているところもあるようだが、節約精神は意外なところに影響した。ソウル市内の主要ホテルでは、宿泊客に洗面所に提供していた使い捨てのカミソリ、歯ブラシなどが資源節約のため置かれなくなったのだ。宿泊客が自前で歯ブラシなどを持参するのが原則になった。これに当惑している日本人宿泊客も多かった。
 中国に話を戻すと、習近平氏は国家主席に就任した2013年から「食べ残し」をなくすよう求めてきたという。今回、改めて「浪費」禁止を持ち出したのは、新型コロナウイルス感染拡大に伴う物流の混乱も懸念した面があった。また、広範囲な豪雨災害が影響した、との分析も。
 習国家主席の「食糧問題に危機感を持て」と指示したことを受け、日本のテレビでも流されている「大食い競争」の動画の放映が批判されるようになったという。
食糧自給率の低さ、農漁業の衰退傾向など「食」に問題を抱える日本も、食べ物の「浪費」について
真剣に考えるべきだろう。

(2)運動の底流に多重債務の広がり へ続く



老練政治家(マレーシア)
   (2020年8月25日)

 マレーシアの前首相のマハティール氏ほど「統治能力」に溢れ、それをエネルギーの核にして長年
活動する政治家は珍しいだろう。その政界での神出鬼没ぶり、波乱を巻き起こす行動力には驚く。
 同氏は、1981年から2003年まで首相を務めた。「ルック・イースト」(日本を念頭に、「東方の国に学べ」という政策)をスローガンに強力なリーダーシップにより、マレーシアを飛躍的に発展させた。 
 ここで普通の政治家ならば「思う存分、国のために尽くした」と満足感を持って政界引退、となるわけだが、1918年5月、マハティール氏は15年ぶりに首相に復帰する。
 首相復帰の当初より、「任期の途中に、アンワル氏(元副首相)へ首相の座を禅譲する」ことを約束していた。しかし、具体的な時期の明言は避けていたという。これが目まぐるしい「動き」の幕開けである。
 今年2月、マハティール氏は、首相を辞任したが、後任のムヒディン政権について「国民に選ばれた政府ではない」と批判し、倒閣を続けると表明した。高齢を理由に、3度目の首相就任は一応否定したが、次期総選挙には出馬への意欲を示した。
 そして、双方の確執は続く。マレーシア議会は、モハマド・アリフ・モハマド・ユスフ議長の解任動議を可決した。マハティール前政権に指名された議長の解任はムヒディン首相の意向で、事実上、ムヒディン首相への信任投票となっていた。
 これに対抗するためマハティール氏は、今夏、新党の立ち上げ、を発表した。新党の名称は「闘士党」、腐敗した政治と戦う意味を込めたといわれる。報道などによると、党の正式名称は「パーティー・プジュアン・タナ・アイル」。与党連合、野党連合のいずれにも属さない第3極となり、マハティール氏が会長、三男のムクリズ氏が総裁となり、マレー系を支持基盤としている。
 マハティール氏はマレー系有権者に対し「カネと権力を好む指導者ばかり選んできたことで、マレー人は長きにわたり苦しんできた」と指摘し、腐敗した政治を変えるべく新党への支持を呼び掛けている。
 これ以外にも、第2代首相のラザク氏の長男で、一時期、首相をつとめたナジプ氏が在任中に創設した政府系投資会社を「疑惑有り」と批判し続けてきた。この問題は、先月末に、クアラルンプールの裁判所はナジプ氏に有罪判決を下した。法廷闘争は長期化する見通しだ。

 95歳になった老練政治家、マハティール氏は、著作の中で「国家のリーダーは超人的な能力を求められる」と語っている。以前にも指摘したことがあるが、「超人的な能力」において、後継首相、後輩政治家らは失格、だれにも任せられない、ということだろう。



総統と大統領の対日観(台湾、韓国)
   (2020年8月10日)

 台湾の李登輝・元総統が7月30日、台北市内の病院で死去した。97歳の大往生だった。住民が直接選ぶ初の総統選挙で勝利、民選総統に就任し、中国とは異なる民主社会を築き上げた功績は高く評価される。蔡英文・現総統は、哀悼の意を示し「台湾民主化への貢献はかけがえのないものだった」と表明している。
 李登輝氏は、日本統治下の1923年、台湾北部の台北州(現新北市)で生まれた。京都帝国大学(現京都大学)に進学、戦後は台湾に戻り、大学教員や農業技師を務めた。
 米国にも留学し、博士号を取得。帰国後、国民党を率いた蒋介石氏の息子で後継者の蒋経国総統(当時)に見込まれ、1971年に入党し政界入りを果たした。
 蒋経国氏の死去を受け、1988年に副総統から総統に就任した。国民党主席も兼務して権力を掌握。戦前からの台湾住民とその子を指す「本省人」として初の総統となった。
 実は、「李登輝ブーム」が続いていた1996年12月に、わたしは、李登輝総統の生家を訪問した。日本の新聞社の記者だったが、『「反日」と「親日」のはざま』(東洋経済新報社)という本を出版するための取材だった。特派員をしていた韓国では、金泳三氏が大統領となり、李登輝氏と同様に軍部改革など民主化を進めた。
 韓国と台湾は、ともに日本の植民地となり、解放された戦後は独裁的な政治が続いた。『「反日」と「親日」のはざま』は、「反日・親日感情」の視点を軸に、韓国と台湾の現代史を比較研究した本である。
 李登輝氏の生家は、新北市三芝区にあった。台北市の中心部から車で約1時間。台湾の最北端の富貴岬に近い。生家は小高い丘の農村地帯にあった。生家のすぐ近くには、李登輝氏の父母の墓もあった。
 この訪問の直前には、韓国の金泳三氏の生家にも行った。済州島に次ぐ韓国第二の島である巨済島(コジェド)。金氏はこの島の網元の家で生まれた。周辺は、農漁村の風景が広がり、ここも李氏の生家と同様にひなびた素朴さに包まれていた。二人は、こうした環境の中で育ち、最高権力者までのぼりつめ、民主社会を築くことに努力したのだ。李氏は、国民党の独裁政権下で禁止された日本文化を開放するなど日台交流に貢献した。
 一方、金氏は旧朝鮮総督府庁舎の解体、竹島(韓国名・独島)の自国領有権の強化策を次々と打ち出した。日本の大衆文化の解禁は、のちの金大中政権まで実現しなかった。
 二人とも、日本の支配時代に生まれた。李氏は「岩里政男」、金氏は「金村康右」が、当時の日本名である。
 台湾と韓国では、地政学的な意味から、日本の植民地統治の方法、統治の強弱の違いが見られた。
その違いも二人の「対日観」に影響しているのだろう。



華人社会、シンガポールと香港の違い
   (2020年7月30日)

 7月10日に投票が行われたシンガポールの総選挙(1院制、定数93)は、リー・シェンロン首相が率いる人民行動党が83議席を獲得し、1965年の独立以来続いてきた政権与党の座を守った。一方、野党の労働者党は前回から4議席増やし、10議席を確保、人民行動党の一党支配にやや陰りが見える結果となった。
 人民行動党はこれまですべての選挙で勝利してきた。町などでの公衆道徳・マナーの順守が徹底される一方、政治や言論の自由は抑制され、同党の長期支配により、シンガポールは「準独裁政治体制」と言われてきた。それでも総選挙が行われ、わずかながらも「野党躍進」が実現するシンガポールは、「香港国家安全法」が制定され、中国化が進む香港に比べ、同じ「華人社会」でも息苦しさの質・程度が違う。

 香港の動きに対応し、米トランプ政権は、香港への機密技術の輸出を困難とする措置を打ち出した。香港国家安全法によって、中国政府の支配が進むと、香港に輸出される米国の技術が、中国人民解放軍などに流用されるリスクがある、というのが措置の理由だ。
 それともう一つ、気がかりなのは、国際金融センターとしての香港の地位の低下だろう。すでに、香港、中国本土の富裕層は、資産を海外へと移しているとされる。その資産の大きな受け皿・逃避先の一つとなっているのがシンガポールである。
 6月初旬のシンガポール当局の発表では、4月の居住者の銀行預金残高は、前年同月比44%増の620億シンガポールドルになった。これは1991年以降で最も多い増加額。香港からシンガポールへの資金の移転を反映している可能性が高い。
 香港は、中国と海外との間の資金の流れのハブなのである。ハブの機能が低下すれば、資金の流れが細くなる。「中国企業の海外からの資金調達、海外からの対中投資の双方に打撃となり、中国と先進主要国の間での資金の流れを縮小させてしまうだろう」という経済専門家もいる。すでに香港からの退避、規模縮小を検討し始めた日系企業もあるという。

 シンガポールは、教育・金融・人的資本・イノベーション・技術・観光・貿易・輸送の世界的な中心である。「国際会議開催数のトップ都市」、「世界で最も安全な国」「最も競争力のある経済」…と評価されている。わたしも何度か長期滞在したが、「物価高」を除けば、シンガポールはバンコクとともに「最も住みやすい都市」と感じた。
 中国化がますます進む香港とシンガポールは、「マネーの流れ」でもまったく違う「華人経済・金融」を
それぞれ形成していくだろう。ひとかけらでも「自由な精神」が有るか、無しかでは、大きく違う。シンガポールがそれを示した。



防衛省のASEAN戦略
   (2020年7月13日)

 日本の新聞で短いけれども目を引いた記事があった。防衛省が7月から、東南アジア諸国連合(ASEAN)などを担当する課長級のポストを新設した、という報道だ。「自由で開かれたインド太平洋」という構想を踏まえ、インド太平洋地域の防衛協力強化を
図るのが目的だ、という。
 これまで防衛省では、米国以外の国との交流や協力は国際政策課が担当している。日本は、ASEANや太平洋に浮かぶ島しょ国との連携強化を進めており、国際政策課の業務負担が増加。体制を強化する必要があると判断し、課長級の参事官ポストを新設したのだ。南シナ海などでの活動を活発化させている中国に対し、日米豪などが連携を強化することが念頭にある。
 記事に接して、「自由で開かれたインド太平洋」の構想の対抗軸として思い浮かぶのが、中国の「一帯一路」政策だろう。広域経済圏構想で、中国からユーラシア大陸を経由してヨーロッパにつながる陸路の「シルクロード経済ベルト」と、中国沿岸部から東南アジア、南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸を結ぶ海路の「21世紀海上シルクロード」で、このルートに沿いながら港湾などのインフラ整備、貿易、交流、物流を促進する計画である。
 ASEANなど近隣のアジア諸国に焦点を絞れば、中国が目を付けたのは、今後も予想されるこの地域の経済成長である。

  「人口のボーナス」という言葉がある。その国の全体人口に占める働く人の割合が上昇し、経済成長が促進されることを指す。例えば日本は1960年代の高度成長期に人口ボーナス期を迎え、潤沢な若年労働力が経済発展に寄与した。しかし2005年に人口ボーナス期が終了し、日本は少子高齢化が進行し、ボーナスを食いつぶしている。
 一方、他のアジア諸国をみると、今後、人口ボーナス期を迎える国は、インドネシア、フィリピン、インド、パキスタン、バングラデシュなど。1億人を超える人口大国が並ぶ。これらの国は本格的な人口ボーナス期を迎え、2040年〜2060年頃までそれが継続すると見込まれているのだ。
 そのほかもシンガポールは2028年、タイは2031年、ASEAN全体の人口ボーナスは2041年まで続き、中国よりも長期に継続するという予想だ。
 中国は、その将来性を期待しているわけだが、中国から支援・融資を受けても、多額の債務を負わされる結果になり、中国側に土地を代わりに取り上げられることが問題になっている。スリランカ南部のハンバントタ港。スリランカ政府は、資金難で中国企業に権益を売り渡したという。軍事転用もありうる、という。
 こうして中国は、インド洋周辺に「拠点」を置き、勢力を伸ばしている。「少しでも、その歯止めになれば…」、防衛省のASEANなどを担当するポスト新設の狙いがよく分かる。


無意識の偏見/Unconscious Bias
   (2020年6月29日)

 米国の医薬品会社が、アジアや中東において、「美しい白い肌」を売り物にした製品の一部販売の中止を決めたという。米国での白人警察官による黒人への暴行死をきっかけに、人種差別根絶への運動が世界的に広がる中、「白い肌を強調・推奨している」との批判が出ていた。「肌による差別」につながる心配があるからだろう。
 アンコンシャス・バイアス(Unconscious bias)という言葉がある。「無意識の偏見・思い込み」という意味だ。女性の活力を引き出すため「女性の管理職を増やす」などが叫ばれているが、それを阻んできたのがアンコンシャス・バイアスではないか、との視点で専門家を講師に招き、社員を対象にセミナーを開いている企業もある。
 例えば、「女性はこまやかな心遣いができる」「女性は管理職に向いていない」「女性は理数系の学習が苦手」「男性は家事が下手」、というような思いを抱いている社員がいるとする。そこで社内セミナーである。女性も男性も千差万別、多様性がある。家事が上手な男性もいれば、理数系が得意な女性もいる。

 最近では、日本のテレビのニュース番組などで女性のキャスターやコメンテーターは珍しくないが、重要ポジションへの女性の登用は、この20年ほど前からのことだろう。
 米国の主要ニュース番組でコメンテーターを努めるのは学者・医者・弁護士・政府、大企業関係者が多く約80%、労働組合・環境、人権団体・消費者団体の関係者は少なかった。しかも出演者は男性が多い、との指摘があった。
 こうした中で、あるIT関連企業は、人事部のデータから国籍や性別、年齢、顔写真すべてをなくしている、という。こういった個人データを提出しなくとも社員になれる。どんな業績を上げ、キャリアを積み、現在、どんな仕事をやっているか。将来の希望はなにか、の項目だけで採用や異動を行っているという。人事上、アンコンシャス・バイアスのもとになりそうな個人データを排除する動きである。

 わたしたちは、情報の洪水の中にいる。直接体験以外の少しでも間接的な情報はみんな一つの判断を持った情報である。情報に囲まれる中で、絶えず判断して選択していくことを強いられている。予見・思い込み、先入観による判断は好ましくない。
 メディアが伝える情報は、そのメディアの立場や意図によって選択され、編集されるなどして再構成されたものである
 ▼情報が現実のイメージを構成してしまう
 ▼メディアは、社会的・政治的な影響力を持つ
それを踏まえることでアンコンシャス・バイアスを考えたい。


ポスト・コロナ禍の新基準
   (2020年6月15日)

 日本のある大手金融機関が、最近、企業への融資指針を改定し「核兵器の製造への融資を禁止する」
と明記したという。欧米諸国では核兵器を含む非人道的な兵器の製造への投融資を自制する動きが強まっており、指針改定などの動きは、日本の金融界にもっと広がりそうだ。
 この金融機関は「国際社会で核兵器の非人道性が広く認知されている」として改訂指針を公表。これまでも内規にはあったが、指針には明記していなかったという。
 この指針改定にまつわる「哲学」は、ポスト・コロナ禍の一つの基準として金融分野だけではなく、企業社会全般に定着していくように思える。その考え方の根幹にあるのは「SDGs」ではないか。

 コロナ禍以前、「SDGs」は、日本のメディアでも盛んに取りあげられてきた。世界が2016年から2030年までに達成すべき17の環境や開発に関する国際目標のことで、「Sustainable Development Goals」の略称である。「持続可能な開発目標」と訳される。
 地球環境や気候変動に配慮しながら、持続可能な暮らしや社会を営むための、各国の政府や自治体だけでなく、民間企業や個人などにも共通した目標である。発効は2016年1月。「だれひとり取り残さない」をスローガンに、「貧困や飢餓の根絶」「質の高い教育の実現」「女性の社会進出の促進」「再生可能エネルギーの利用」「経済成長と、生産的で働きがいのある雇用の確保」「不平等の是正」「気候変動への対策」「海洋資源の保全」「陸域生態系、森林資源の保全」など17の目標と、この目標を実現するための169のターゲットからなる。SDGsはすべての国・地域を対象としている。
 目標には法的拘束力はないが、「コロナ禍の後に実現させたい世界」と感じた方も多いのではないか。

 わたしが勤務している大学は、グローバル教育を推進し、世界の200の大学等と交流しており、語学教育や留学制度などを通して、グローバル社会で活躍するための素養を身につけた人材輩出を目指している。SDGsのゴール4「すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を促進する」、ゴール17「持続可能な開発のための実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する」につながる活動を行い、SDGs達成に努力している、との認識だ。
 一大学が、これほどまでに「SDGs」にこだわっているのだ。そのわけは、これらの目標を無視し、反した行動をとる組織は、近い将来、世界に、社会に受け入れられなくなるからだろう。
 特に企業は、相手にされなくなり、マーケット(市場)からの退出も余儀なくされよう。貧困や飢餓の根絶、森林資源の保全など、東南アジア諸国でも早急に取り組まなければならない課題は多い。

コロナ受難世代
   (2020年6月8日)

 日本では、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、外出自粛などを呼びかけた「緊急事態宣言」が、首都圏を含め全国的に解除された。ただ、国によって感染濃度が違うこともあり、海外渡航での自由往来はまだまだ先の話だろう。
 東南アジアをはじめとする技能実習生の日本への渡航も足止めされたケースが多く、その人数の穴埋めに、休業中のホテルなどの観光業や飲食店の従業員らが農家の仕事を手伝うのが目立つという。外国人技能実習生は発展途上国の人材育成や日本の技術を伝えることを目的に受け入れ、農業や建設業などに従事してきた。
 日本での支給金を当てにして、母国で渡航手数料などを払い、その借金を抱えている多くの実習生や語学留学生からも悲鳴が聞こえてくるようだ。

 日本の大学生ら若者も大変だ。アルバイト先が休業し、職が無くなり、たちまち生活苦。アパート代も払えない。保護者の収入もダウンし、仕送りもままならず、「大学を辞める」と考えている学生も多い、と聞く。通常なら、いまは就活シーズン。
 しかし、大規模な就職説明会などは中止になり、企業がオンラインで個別に説明会や面接を行っている程度だ。「宣言解除」で説明会の復活も考えられるが、今後の景気・経済の大幅な落ち込みで企業の新規採用の中止や採用数の縮小が心配される。この状況に「新氷河期世代の到来」ということも言われるようになってきた。
 「就職氷河期世代」とは、30代後半から40代にかけての世代を指す。バブル崩壊後、アジア通貨危機なども起き景気低迷は深刻化し、1990年代後半を中心に、企業の倒産や人員削減による失業、新規採用の抑制による就職難が発生した。
 1947年〜49年に生まれた世代を、堺屋太一の小説の題名をとって「団塊の世代」という。第2次大戦後のベビーブーム時代に生まれた世代で、大きな人口構成で日本の経済大国化を担った。
 その団塊の世代のジュニアも第2次ベビーブームと言われ、他の世代と比べると人口が多い。 この「団塊ジュニア」が大学卒業時に「就職氷河期」に遭遇したといえる。
 それと比較して、いまの状況はどうか。宮本太郎・中央大学教授は新聞のコラムで「現在の15〜24歳の世代は就職氷河期世代より約500万人少ない。高齢者人口が3,900万人近くとピークに達する2040年に、少ない数で社会の中核を担うのがこの世代なのだ」 と説明し、「コロナ就職難世代」を生んではならない、と指摘している。
  「氷河期世代」については、いまも後遺症が続いている。他の世代と比べ非正規社員・労働者の多さ、企業などでは、新規採用が抑制されたため正規従業員が少なく、年齢構成のいびつさなどが表面化。社会の活性化に悪影響を及ぼしている。
 将来のことも考えあわせ「コロナ受難世代」を生んではならない。


梨泰院・イテオン(韓国)
   (2020年5月25日)

 新型コロナウイルス感染の大規模拡大をいち早く食い止め、国際的に注目されていた韓国で規制を緩和したとたん、ソウル市の繁華街のクラブにおいて新たな集団感染が発生した。5月16日現在、クラブ関連の累積感染者は162人となり、さらなる感染拡大が懸念されている。
 発生したのは、ソウル市内の梨泰院(イテウォン)のクラブ。1990年代に日本の新聞社の特派員として5年間、ソウルに駐在した。「梨泰院」とは久しぶりに聞く地名だ。
 日本支配の時代は、近くに日本軍の龍山基地があり、戦後の1945年以降は、米軍基地となり、梨泰院はアメリカ軍関係者をはじめ、日本人や各国観光客、韓国の若者らが集まるようになった。1988年のソウル五輪開催を契機に、客足は増え続け、みやげ物店やクラブ、バーやレストランがひしめき、昼夜にぎわった。わたしも日本から客が来ると、この「基地の街」を案内したものだった。
 
 2000年代になると、その米軍基地は、ソウル南方の平沢市への移転が始まり、2018年に平沢移転が完了した、という。
 しかし、基地がなくなっても、縮小されても基地周辺の繁華街の雰囲気はすぐに変わるわけではない。
そのネオン輝く妖しい梨泰院の街に、20代の一人の男性が訪れ、客が大勢集まるクラブ3店に相次いで入店していたことが判明した。男性は熱やせきがあったがマスクを着けていなかったといい、感染が広まったとみられている。
 当時、相当な数の人が付近にいた。クレジットカードや防犯カメラの記録から、濃厚接触者の特定を急いでいるが、難航している。この種の店ではカードでなく現金決済の客が多い。また、顧客名簿の作成などを条件にクラブの営業が再開されたが、この3店舗を確認したところ、名簿にある多くの客と連絡が取れなかった。名簿への虚偽の記述が指摘されている。
 韓国は、宗教団体の集団感染をきっかけに、感染拡大が続き、感染者数で3月上旬までは中国に次いで世界で2番目だった。しかし、その後、ウイルスの検査を「ドライブスルー方式」などにして大規模に行い続け、感染を収束させた。欧米は「一つの手本になった」と、「韓国方式」を評価した。
 この新型ウイルス対応策で文在寅大統領の支持率は上昇し、総選挙では、与党(共に民主党)が勝利した。文大統領は2022年5月の任期満了まで求心力を維持する見込みだ。
 その状況は、変わりつつあるのか。クラブ感染で再開予定だった高校生や小中学生の登校は延期になった。2次・3次はもとより4次感染も心配されている。梨泰院のネオンに誘われた一人の若い男の「行為」が多大な影響を及ぼしている。


外出自粛を有意義に
   (2020年5月3日)

 東南アジアの各国と同様に日本でも新型コロナウイルスの感染拡大を受け、外出自粛などの措置が取られている。自宅に閉じこもる生活が続き、憂鬱な気分になる。
 そんな時に、あるコラム記事に出会い、共感した。筆者はロンドン特派員などを経験した毎日新聞の敏腕ベテラン記者で、シェークスピアとニュートンを取り上げ、こう書いている。民放テレビでも一部、紹介された。
 要約すると、「16世紀から17世紀にかけ英国は度々、ペストに襲われている。死者が多いと劇場は閉鎖、という規定もあり、シェークスピアの芝居も何度か公演中止に追い込まれた。そのとき彼は、『ビーナスとアドニス』などの長編詩を書き収入にした。4大悲劇の一つ『リア王』(1606年)を書いたのも劇場閉鎖の時だった。
 一方、ニュートンは1665年、ケンブリッジ大学で数学を学んでいる時、ペストの流行を経験する。ロンドンだけで約7万人が亡くなった。大学は閉鎖され、彼は故郷ウールスソープの田舎に退避するしかなかった」。

 ここからが本題である。この2人の英国人には、感染症の流行を逆手に取ったという共通点がある、と指摘。
 ニュートン(1642年〜1727年)は自然哲学者、数学者として、また、物理学者や天文学者としても有名になるが、当時は20代前半の若者だった。田舎への避難生活により、都会の喧噪な中で、しなければならなかった雑事から解放されたわけだ。
 思索にふけったニュートンは、木からリンゴを落ちるのを見て、あの有名な「万有引力の」の着想を得た。大学に戻る1667年までに、この法則のほか微積分法や光の分光的性質といった「3大業績」の全アイデアを見つけた。
 この時期は、後に「驚異の1年半」と呼ばれるようになった。ニュートンは晩年「私の発明、数学、そして哲学にとり最も素晴らしい時代だった」と語ったという。

 このコラムは「新型コロナの流行は容易に収束しそうもない。ならばこの困難な時をいかに有効に使うべきかを考えた方が良さそうだ。何も物理法則を見つけ、後世に残る長編詩を書く必要はない」と結びながら「日頃読めない古典と格闘し、気になっていた名画をDVD鑑賞するのも良いし、料理を楽しんだりしてみたらどうだろう」という。
 コロナ終息までの先行きが見えないこの状況では、不安やストレスがたまるのも無理はない。
 しかし、感染症の流行を逆手にとり、ピンチをチャンスにするように心がければニュートンのような「驚異の1年半」にならなくとも、考え工夫すれば「貴重な時間」にはなる。


感染と暴動(インドネシア)
   (2020年4月28日)

 インドネシアでも新型コロナウイルスの感染が広がっている。ASEAN(東南アジア諸国連合)の各国は
厳しい活動制限を敷いているが、インドネシア政府の対策は少し遅れている、という。
 その理由は、感染防止対策で厳しい手段をとれば生活面において、庶民の日頃の不満がさらに高まり、暴動などにつながることを危惧しているためだ、との指摘がなされている。

 マレーシアやフィリピンなどが3月中旬以降、罰則付きの「都市封鎖」や活動制限を実施する中、インドネシアは外出自粛や在宅勤務の要請にとどまってきた。ジャカルタ特別州で10日、ようやく行動制限措置が始まったが、目新しさはなく、効果のほどは見通せない。
 インドネシア当局が危惧する暴動・社会混乱、といえば、思い出すのは、1998年、新聞社のバンコク特派員として赴任して間もなくの時期だった。32年間統治してきたスハルト大統領が同年5月に辞任した。スハルト氏は、独裁体制のもとで経済開発を進めた。1980年代に入ると一族に利権が集中するようになり、大統領批判が強まった。1997年のアジア通貨危機でルピアは暴落、政府は国際通貨基金に金融支援を求めた。しかし、公共料金の大幅値上げなどの施策に対し、各地で抗議デモが発生、首都ジャカルタでは暴動に発展するなどで、スハルト氏は辞任に追い込まれた。
 この時期に取材のため、バンコクからジャカルタに入ろうとしたが、航空会社の職員から「ジャカルタに行くのは危ない。暴動で邦人が国外に避難しようとしているのに」と忠告された。
 ガラガラの航空機でジャカルタに到着したが、華人系の商店が焼き討ちにされるなどの襲撃事件が多発していた。
 また、古い話だが、日本のASEAN外交の指針となった「福田ドクトリン」(1977年)もジャカルタの暴動が深くかかわっている。1970年代初め、高度成長を果たした日本の製品が氾濫するASEANには反日感情が渦巻いていた。
 「かつて軍事侵攻した日本が今度は経済で進攻してきた」という反発である。1974年、田中角栄首相(当時)が、歴訪中に、バンコクでは首相一行が宿泊したホテルが反日デモ隊に包囲された。もっとも混乱したのがジャカルタで、日系の代理店、事務所、日本車が焼き討ちされた。田中首相は滞在先の建物から出られず、ヘリコプターで空港に脱出した。
 こうした事態を踏まえ、福田赳夫首相の時代になって「日本は軍事大国にならない。ASEANは対等のパートナー」などと宣言した。これが「福田ドクトリン」である。

 ジャカルタは、ひどい交通渋滞、大気汚染、人口過密、洪水など「負の側面」を多く抱える。日頃からストレスを感じている市民も多い。なにかのきっかけで、そのストレスや不満が爆発しないか、と感じる。政権は強権的なコロナウイルス感染拡大政策の実施に慎重になるようだ。


先んじた緊急事態国の今(タイ)
   (2020年4月17日)


 日本も新型コロナウイルスの感染拡大で4月7日やっと緊急事態宣言が出された。しかし、感染者激増で、できるだけ早く強力な措置を期待していた人の多くは「遅すぎた」と感じ、海外のような「都市封鎖」なしに安堵と不安が交錯した。
 日本の“遅すぎた”緊急事態宣言は、先んじて発令されたタイと比較・検証すると明らかになる。

 タイの緊急事態宣言は3月26日、感染者数(1,045人)の人口(6,891万人)比は約0.000015。
4月7日の日本は感染者数2,643人、人口(1億2,595万人)比は約0.000034。
 タイの倍になってからの緊急事態宣言発令は「後手、後手」と言わざるを得ない。
 タイではパブやマッサージ店、ゴルフ場も全て閉鎖され、大規模集会も禁止された。
 他県へ行くことは自粛を求められ、検問所も設置されるロックダウンだが、生鮮食料品、日常必需品の出入荷、医療関係者、認められた急用のある人は夜間外出禁止令(22〜4時)でも移動はできる。
 違反者には罰則規定が盛り込まれたこともあり、成果が出てきたようだ。この数日の感染者確認は30〜60人で減少傾向がはっきりと見えてきた。
 現地の日本人からは「タイ人が整然と組織的に行動できるのか」驚きの声もでている。
 僧侶の托鉢はマスクに加えてフェイスシールド着用姿もみられる。タイ東北に位置するイサーンでは村々が自主的な”村封鎖”をやり「バンコク出稼ぎ者はしばらく戻ってこないで」となっていた。
 感染症重症者の病院はノンタブリー県にあるが、医療関係者への市民の激励、支援活動の拡がりは感銘受ける。お寺ではボランティア活動としてマスクづくり、地域婦人会、家庭でも相互援助とコロナに立ち向かおうという機運が盛り上がっている。日本よりも統制された緊急事態が保たれているというのが取材した実感である。
 タイは年間4,000万人の外国人受入れ、隣接国からの出稼ぎが700〜800万人、国内の出稼ぎが500〜600万人、つまり世界でも有数の多移動の国だ。そこで感染拡大をこれだけ抑制出来ているのは評価されてもよい。
 タイのロックダウンは4月末まで続き、その後どう緩和するかが課題だ。経済への甚大な影響との兼ね合いをどうするか。国内の感染状況だけをみれば、あと2週間で緩和もありだが、外国からの入国についてはあと数か月は厳しい措置が続くだろう。

 世界を見れば、新型コロナ封じ込めに成功しているのは台湾、韓国、ドイツか。
 感染者はでたがPCR検査を広範に拡げそのデータを駆使してコントロール、国際社会から一つの手本とされる実例をつくった。ドイツは欧州のなかで突出して致死率を抑えることに成功している。
 これらの国に共通するのは、戦争と分断国家の歴史を持ったことだ。国難、国民の社会危機にーダーがどのような責任感をもって必死に行動するのか。
その質が問われているようにみえる。
 はたして、日本はどうか…。


感染が脅かす「文化・伝統」
   (2020年4月5日)

 新型コロナウイルスの感染拡大が、マレーシアを直撃している。感染者が約3,000人(4月初旬の時点)と東南アジア諸国連合(ASEAN)で最多のマレーシアでは、事実上の「国境封鎖」に加え、学校や企業、商店なども閉鎖される活動制限令が出され、原則として外出禁止となっている。
 感染国としては、それほど目立つことのなかったマレーシアで、感染者数が急増し始めたのは、3月中旬ごろから。15日に190人の感染者が確認され、以降は連日100人以上の感染者数を記録した。
 日本も大変だが、その感染者数を追い抜いてしまった。

 世界的な感染拡大の状況をじっとみてみると、その要因として「文化」や「伝統習慣」が深く関わっているのが分かる。マレーシアでは、イスラム教団体がクアラルンプール近郊で開催した大規模な礼拝が集団感染源(クラスター)となり、爆発的な感染の要因になった、という。
 日本では、度あるごとに、感染対策として
 ▼換気の悪い密閉空間
 ▼人が密集している空間
 ▼人と人とが狭い間隔で会話や発声する密接場面
 この「3密」の条件が同時に重なった場所に行かない、との警鐘がなされてきた。
 モスクでの集まりは、まさに「3密」を体現していた、と想像がつく。たった1つのモスクで開かれたイスラム教の礼拝が大規模感染源となったのだ。

 タイでも非常事態宣言が出された。4月初旬で累計感染者数が約2,000人になった。集団感染が起きた典型的な例は、「ムエタイ」の競技場で、選手のほか、トレーナーや観戦者らが次々と発症した。ムエタイはタイの格闘技、「スポーツ・文化」の象徴で、国民の人気が高い。競技場では熱気がこもり、濃厚接触が避けられない。観客が職場や自宅に戻ったりして、感染が広がったとみられている。
 タイ政府は、当時、イベントの自粛を閣議決定しており、ムエタイの競技団体も中止を要請していたとされる。それでも試合は行われたのである。懸念されるのは、政権が感染拡大防止を目的に、軍政時代と同様に強い言論統制権限を手にしたことだ。
 新型コロナ対策をめぐる政府の情報発信を自らの管理下に置くという。コロナウイルスは「文化」・「スポーツ」・「伝統」と、「政治」とも密接に関連するのだ。

 日本では、東京五輪・パラリンピック、センバツ高校野球大会などの人気スポーツが延期や中止になり、春の風物詩の花見も多く人が集まる上野公園などの名所では宴会中止になった。
 初期の集団感染源の一つとされた東京名物の屋形船は、客足が途絶え、今後の営業・経営の見通しは暗い。
 浅草の三社祭(浅草神社例大祭)は、延期された。京都など古都で行われてきた伝統の祭りの延期が
検討されているという。コロナ感染は、日本の文化、伝統を脅かしている。


 新型肺炎とアジア系差別
   (2020年3月24日)

 新型コロナウイルスの感染が国際的に広がる中、欧米でアジア人・アジア系の人々に対して、暴行したり暴言を吐いたりするケースが増えている。
 例えば、報道によると、仏のパリ郊外の日本食レストランで「出て行けウイルス」などの落書きがあり、営業が妨害された。
 ニューヨークでは、マスクをしていたアジア系の女性が殴られる事件も起きた。そのほかにもアジア系というだけで、暴力を受けた、との事案が各地で起きている。

 こうしたアジア人・アジア系への暴力の背景に潜む、理由がよく分からない嫌悪感・差別意識は、どこから出てくるのだろう。
 かつて「黄禍論(おうかろん」というのがあった。専門書などによると、19世紀半ばから20世紀前半にかけて欧州・北米・豪州などで広まった「黄色人種脅威論」である。フランスでは19世紀末にこの言葉が使用され、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画によって世界に流布された、といわれる。
 日露戦争における日本の勝利が欧州全体に広める契機になった、ともいう。 
 黄禍論で対象とされた民族は、主に中国人、日本人で、米国では1882年の排華移民法、1924年の排日移民法など反中・反日的な法律が制定されている。
 そうした傾向と対極にあるのが「ジャポニスム」だろう。19世紀にヨーロッパで流行した日本趣味のことだ。欧州での国際博覧会へ出品などをきっかけに、浮世絵・工芸品などの日本美術が注目され、ゴッホ、クロード・モネら西洋の画家や作家たちに影響を与えた。ジャポニスムは、それ以降、世界的な芸術運動の発端ともなる。
 「黄禍論」も「ジャポニスム」も結局は、「西洋の視線」がもたらしたものだが、それを鋭く解析したのが、パレスチナ出身のアメリカの批評家、エドワード・サイード氏の著書『オリエンタリズム』(1978年)である。 それによると、オリエンタリズム( Orientalism )は、
「世界を西洋(Occident)と東洋(Orient)に分けて考える思考」が基本で、アジア、極東など東方世界に目を向け、西欧にはない異文明のものごと・事象・風俗に対しての憧れや好奇心などを意味する。
 西欧で継承されてきた「オリエンタリズム」という概念は、「東洋人のイメージとして怠惰、劣悪で、国家を運営もできないというイメージを作ってきた。
 オリエントに対するヨーロッパの思考様式は、合理的・計画的・体系的・近代的で、植民地支配の論理にもなる」と指摘した。

 他民族(よそ者)を、理由もなく、嫌悪感や恐怖心を抱くことを「ゼノフォビア(Xenophobia)」という。感染拡大は、欧米人のゼノフォビアを刺激し、アジアに対する差別を招きがちになる。



 本拠地(インド)
   (2020年3月15日)

 トランプ米大統領は、2月インドを訪問し、モディ首相と会談した。米印関係を「包括的グローバル戦略パートナーシップ」に格上げし、ユーラシア大陸とインド太平洋への影響力の拡大を狙う中国を念頭に安全保障協力を強化していくことで合意した。
 米国からインドに総額30億ドル以上の武器売却をすることでも合意した。今回の首脳会談で、両国関係はさらに強化された、ように思える。
 トランプ氏への歓迎ムードは熱かったようだ。集会の舞台は、モディ首相の地元グジャラート州のクリケットスタジアム。10万人が参加したという。「ナマステ
(こんにちは)・トランプ」という集会。さぞかし盛り上がったに違いない。

 グジャラート州、といえば、思い出すのがヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を取材したことだ。18年前の2月。同州のアーメダバードで両教徒による宗教暴動はグジャラート州各地に広がり、多くの死者が出た。暴動の発端となったのは、イスラム教徒が
関与したとみられる列車放火事件で、乗っていたヒンズー至上主義者らは、ヒンズー寺院再建を求める集会から帰る途中だった。寺院はモスク(イスラム礼拝堂)の破壊跡に建設される計画だった。列車襲撃に対する報復が始まり、イスラム教徒の居住地などが襲われたのだ。
 グジャラート州は、犬猿の仲のパキスタンと隣接し、イスラム教徒が多く、列車放火事件に現れたように宗教対立が懸念されている地域だ。モディ氏とも縁が深い。
 以前、モディ氏は、同州の州政府首相として手腕を発揮し、経済発展を実現させた。国の首都ではなく、その自分の「本拠地」を選び、トランプ大統領を迎えての大集会を開いたのだ。
 この「トランプ訪印」の成果により、後ろに隠れてしまった形だが、昨年12月にインド政府は、パキスタンやバングラデシュ、アフガニスタンといった周辺のイスラム諸国で迫害されてインドに逃れてきたヒンドゥー教・仏教・キリスト教の教徒らに市民権を与える方針を決め、法制化された。 一部のイスラム教徒は、「市民権付与対象にイスラム教徒が含まれないのは、差別的だ」と訴えた。この市民権付与は、支持層であるナショナリストのヒンドゥー教徒をさらに結集する
ためにモディ首相が掲げてきた重要な選挙公約の1つだった。
 モディ氏には、列車襲撃事件をきっかけにグジャラート州各地で起きた宗教暴動の時期に、州首相だった――という過去がある。イスラム教徒に対する報復・虐殺事件を州のトップとして防げなかったことへの批判はくすぶっている。市民権付与問題が深刻な
宗教対立を引き起こさなければよいが。



 中国への忖度?(カンボジア)
   (2020年2月25日)

 新型コロナウイルス感染拡大の防止で日本、フィリピンなどが入港を拒否していたクルーズ船「ウエステルダム」がカンボジアのシヌークビルに寄港した。
この感染水際対策やクルーズ船の寄港を巡る東南アジア各国の対応の違いを検証すると、対中国との距離感が分かる。
 東南アジア諸国連合(ASEAN)各国の多くは、感染源と言われる中国・武漢との定期航空便を運航停止しているが、フィリピンやシンガポールはさらに中国各地からの定期便の乗り入れ制限や中国人の入国制限を打ち出すなど厳しい措置を講じている。

 新型肺炎の感染拡大で、欧米の一部も既に自国民を中国から退避させる勧告を出すなど「中国離れ」の動きを強めてきた。この流れに乗ってASEAN各国も、これ以上の厳しい措置を取ることを中国は警戒し、王毅外相は、20日にラオスで開かれた中国・ASEANの外相会議に出席し、感染対策強化をアピール。
 ASEAN各国が強硬な防衛策をとらないようにくぎを刺した形だ。
 しかし、カンボジアに限っては、中国の警戒感は杞憂だった。すでにフン・セン首相は、1月末に記者団に対し「国民は心配することは何もない。カンボジア人は一人も感染しておらず、死亡もしていない。感染に恐怖を抱くことこそ病である」と公言した。
 さらに首相は、日本をはじめ各国がチャーター機などで脱出を支援する中、そうした「救援機」を出さないことを決定した。会見では首相も政府関係者のだれもがマスクを着用していなかったという。

 シアヌークビル。タイ湾に面し、カンボジアで崇拝されている故シアヌーク国王にちなみ、名づけられた州の州都である。首都プノンペンから航空機に乗れば1時間足らず、車では4時間程度かかる。何度か訪れたことがあるが、美しいビーチが売り物の観光地だ。
 2000年代後半に中国が開発を始めると、様相は変わった。中国マネーで建設ラッシュが進み、大型船が入港できるシアヌークビルは、中国の経済圏構想「一帯一路」の要衝、として位置づけられた。中国人が経営するカジノも乱立し、中国人が経済の実体を握る。
 中国企業が強引に無許可で、建設中だったビルが崩落し、多くのカンボジア人作業員が犠牲になる事故も起きた。
 中国の経済的支援を背景に、欧米の経済制裁の動きを気にせずに、国内で独裁性を強めるフン・セン首相にとって、中国の顔を立てるためにも中国の経済進出の「最前線」ともいえるシアヌークビルへのクルーズ船「ウエステルダム」の寄港は、必要だった。
 同船が各国に寄港を拒まれ、漂流状態だった時から予想できた。



 変貌する台湾
   (2020年2月10日)

 この冬、久しぶりに台湾・台北に行ってきた。前回は、李登輝総統が進めてきた民主社会の建設が軌道に乗り、それが定着したころだった。現地でお会いした大学教授や李総統系列の政治家らが、「本省人」による政治の実現・継続の意味について熱っぽく語り、歓迎していたのを思い出す。
 「本省人」とは、第2次世界大戦前より居住する台湾人のことで、大戦後に大陸から台湾に移住して来た人は「外省人」と呼ばれる。長らく「外省人」が政治のポストを独占し、権威主義体制が続いた。前回訪問時は、その外省人と本省人との摩擦や、政治的緊張の余韻が漂っていた。今回は、何よりも「台湾社会の落ち着きぶり、成熟さ」が印象的だった。
 ちょうど総統選の選挙中だったが、台北中心部の繁華街でも、「ざわざわ、せわせわ感」がなく、市民は大声で話すわけでもなく、行列を守り、表情にも余裕が見られた。
 その総統選では、蔡英文総統(民進党)が過去最多得票で再選を果たした。蔡氏は香港の大規模デモを背景に「民主と自由の価値観で困難を克服しよう」と訴え、支持を広げたのだ。
 台湾や香港に強権姿勢で臨んできた中国への拒否反応が蔡氏の支持を押し上げたといえる。有権者の落ち着いた、冷静な判断の結果だろう。
 
 一方、中国は「一つの中国」の受け入れを拒否する蔡政権との対話を拒否し、台湾に対する外交、軍事、経済面での圧力を強めてきた。結果、台湾と外交関係を持つ国は15カ国にまで減った。
 この中国の圧力が、ここに来て、問題化している。台湾で新型コロナウイルス肺炎による感染が確認された。それに伴い、世界保健機関(WHO)への台湾の参加を阻止しようとする中国の姿勢が問われているのだ。中国による排除の動きについて、「公衆衛生の危機に対する世界的な取り組みを損なう」との指摘だ。
 伝染病拡大などの非常事態では、情報収集や対策は一刻を争う。 健康を監視する国連機関など、国際的な集まりの場に台湾が参加しようとする動きを著しく制限しようとしてきた中国の姿勢は、台湾が伝染病対策で抜け穴になる要因になりかねない。そうなれば世界全体に影響が及ぶ。
 香港で続いた大規模デモで「1国2制度」の機能不全があらわになり、「独裁と民主は共存できない」とした蔡氏の主張の正しさが総統選で裏付けられる形になった。
 有権者の関心も高まり、投票率は前回を上回り、蔡氏の得票も前回から100万票以上増えた。無党派層も蔡氏支持に回ったといえる。台湾社会の「落ち着き」と中国の「圧力」。
 日本をはじめ国際社会は、落ち着いた居心地の良い社会環境を好むだろう。



 こじれる日韓関係
   (2020年1月25日)

 安倍晋三総理は通常国会で施政方針演説を行い、外交では、韓国について「最も重要な隣国」との表現を使った。「近隣諸国との外交は、極めて重要。韓国は、元来、基本的価値と戦略的利益を共有する最も重要な隣国だ。国と国との約束を守り、未来志向の両国関係を築き上げることを、期待する」と強調した。
 また、北朝鮮問題では、「日朝平壌宣言に基づき諸問題を解決し、不幸な過去を清算して国交正常化を目指す」との認識を示している。総理自ら、朝鮮半島への友好外交に、積極性を見せているわけだ。しかし相手の姿勢は厳しいままだ。

 日本政府観光局によると、2019年の訪日外国人客数は、関係の冷え込みを背景に韓国からの訪日客数は2018年に比べ25.9%減の558万4600人と大幅に減少。一方、全体の訪日客数は3,188万人と過去最高を更新したが、韓国人訪日客のダウンを反映して、増加幅は2012年以降で最小を記録した。
 韓国では日本が輸出管理の厳格化を発動して以降、日本への旅行も不買運動の標的となった。日本政府は表向き否定するものの、輸出規制は元徴用工問題で動こうとしない韓国に対する報復措置だと受け止められている。元徴用工問題の解決なしには、輸出規制措置の撤回も困難なのだ。この日韓関係のこじれは、どうして生まれるのか。最近、南北朝鮮の政治・社会・文化に詳しい専門家からじっくり話を聞く機会があった。

 その専門家によると、要因の一つは、日韓間の「アイデンティティの衝突」だという。朝鮮半島は、1910年から1945年まで、日本の支配下にあった。
 日本は朝鮮を併合し、創氏改名、日本語教育、神社の建設などに象徴されるように、日本化(皇民化)を進めた。現地の文化や習慣にそれほど深入りしない欧米の、アジア・アフリカなどにおける植民地政策とは、違う政策を進めた。
 韓国は、併合がもたらした「日本の残滓(ざんし)」を取り除き、自国の「アイデンティティ」を確立するため、「排日(反日)」を貫く必要がある。その排日作業が続いている。
 二つ目は、政治文化の違いによる衝突だ。象徴的な言葉で表現すれば「侍」と「儒教家」との違いである。日本は「一度決めたら、約束したらそれを死んでも守る。ゴールポストは動かせない」。日韓条約をはじめ、外交的約束や協定で決着した問題を再び蒸し返すな、ということだ。
 一方、韓国は「正義とは何か、を追及する過程で、約束事も正義に反すると分かれば流動的になり、考え直す必要がある。正義のためにはゴールポストさえ動かせる」という論理だ、という。
 これは北朝鮮にもあてはまるかもしれないが、韓国では、ここに国内の「革新と保守」が激突・対立し、日韓間の重要問題についても、妥協点がなかなか見いだせない。「中庸」勢力が見当たらないのだ。
納 得のいく指摘だったが、この専門家は、これを踏まえ、「だから日韓間の問題解決は至難の業」と付け加えるのは忘れなかった。