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アジアに密着 Asia-Wach Network


国際世論(ミャンマー)  
  (2019年12月30日)

 ミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問が、苦境に陥っている。2019年12月、イスラム教徒ロヒンギャの迫害問題をめぐる国際司法裁判所の審理に出廷、ロヒンギャに対する軍事対応がジェノサイド(大量虐殺)に当たるとの主張に対し、国際的な司法の介入を拒否した。
 しかし、1991年、ノーベル平和賞を受賞したスーチー氏だけに国際世論の風当たりは強くなるばかりだ。平和賞の受賞理由は「民族が調和して協調できる民主的社会の確立に貢献」。ロヒンギャ問題での姿勢と、大きく乖離している。非難が集まるはずである。
 ロヒンギャは、人口は80万〜100万人といわれ、ミャンマー西部のラカイン州に住む。多くがイスラム教徒だ。多民族国家のミャンマーは、多くの少数民族を「国民」と認めているが、ロヒンギャはそれに含まれておらず、政府との対立の要因になっていた。
 2017年8月にはロヒンギャの武装集団が政府軍・警察の施設を襲撃。その報復に、政府の治安部隊が女性や子どもを含む住民を殺害、民家を焼き払った、という報告もある。隣国バングラデシュへの避難する住民も後を絶たない。
 スーチー氏は、この報復に関して、国際司法裁判所で弁明をしたわけだ。
 一方で、生き延びた人たちは、ミャンマー軍による残虐行為を証言している。国連調査団の報告書は、こうした暴力をジェノサイドと認定したのだ。
 「ミャンマーと国連」といえば、思い出すのは、かつて国連の事務総長をつとめたウ・タント氏である。同氏は教育者で、1957年にビルマ(現ミャンマー)政府の国連代表に。当時の国連事務総長、ハマーショルド氏が航空機事故で死亡したのにともなって事務総長代理となり、1962年に事務総長の座に着いた。
 この時期は東西冷戦のさ中で、中立主義を掲げるビルマから国連事務総長を選出するのが無難な選択だったようだ。
 当時のビルマは、コメなどの食糧も量産され、資源も豊富で、自由と希望があった国だった。ウ・タント氏は、そうした祖国に後押しされ、キューバのミサイル危機(1962年)などを乗り切った。在任期間は10年。敬虔な仏教徒としての修養と研鑽。その奥深い教養と反植民地主義を貫く信念に人々は尊敬の眼差しを向けた。だが、事務総長に就任後、ビルマでは、クーデターが起き、「暗いビルマの時代」が始まり、そして「暗いミャンマーの時代」に連なる。
 ウ・タント氏が死去(1974年)してから45年が経つ。「アジアの哲学」を深く心にしまい、国連の場でやっかいな問題に臨んだウ・タント氏。スーチー氏も民族の調和と民主社会の確立、という難題に取り組んだ。ロヒンギャ問題をめぐる国際社会の反発も、期待の裏返しだろう。

送金(ベトナム) 
  (2019年12月17日)

 衝撃的なニュースだった。10月のある日、英国のエセックス州で冷凍トラックのコンテナから多数のベトナム人の遺体が発見された。ベトナム中部のゲアン省などから来た労働者で、そのうちの一人の女性、パム・ティ・トゥラ・マイさん(26才)のケースも、涙を誘った。
 トゥラ・マイさんは欧州に向かう際、不法な密入国の代価として、巨額な資金を「業者」に支払っていた。そして、その後に待っていたのは…。
欧州からトゥラ・マイさんは、故郷・ベトナムで待つ母親の携帯電話に「私の海外渡航は失敗する。死にそう。息ができない」というショートメッセージを送った。これを最後に連絡が途絶えた。
 トゥラ・マイさんは家計のために大学を中退し、日本で3年間就労した経験があったという。9月によりよい仕事を探すために英国渡航を決意、中国に渡って
準備していたという。
 ベトナムは、「ドイモイ(刷新)」政策(1986年)を導入、社会主義路線を見直し、市場経済化を進めるなどで、経済を発展させてきた。長期的な経済成長の
実現で、国民生活も豊かになったはずだった。 しかし、その果実を享受したのは、経済都市のホー・チ・ミン市や首都ハノイなどで、地域格差があった。
 特にこのゲアン省など中部地域やラオス国境に近い地域は、繁栄に置き去りにされた感があった。この地域には、「木魚をおかずにしてご飯を食べる」という言い伝えがある。つまり、木魚に彫られている魚の姿をおかずに見立て、ご飯を食べるとの意味だ。
 それほど貧しかった。それに打ち勝つように、この地域からは、ベトナム独立の父ファン・ボイ・チャウやホー・チ・ミンら傑出した人材が出ている。
 今回の悲劇について思いめぐらしていると、「越僑」のことが浮かんできた。海外に在住するベトナム人だ。世界各地に約450万人が住んでいるという。ベト
ナム戦争が終結した1975年に社会主義化を嫌って国外に脱出した人々である。多くが米国、欧州といった豊かな国に住み、この越僑が、稼いだ金品をベトナムにいる親族らに送っている。その金額は年間1兆円を楽に超えていると推測されている。所得水準がそれほど高くない本国のベトナム人が、例えば、高額な高級不動産物件を購入しているのに驚くことがある。これも「越僑資金」のおかげだ、と言われてきた。
 ならば「欧州に行って働き、越僑のようにベトナムにいる家族に送金し、楽にさせよう」というパム・ティ・トゥラ・マイさんのような、危険を冒しながら稼ぎに行く若者が出てもおかしくない。
 ご冥福を祈るばかりである。

サム・レンシー(カンボジア) 
  (2019年12月10日)

 カンボジアの元最大野党党首で、政権批判をし続けたため、国外滞在を余儀なくされていたサム・レンシー氏の動向が気にかかる。同氏は、帰国計画を表明し、独裁色を強めるフン・セン首相に対抗する意思を固め、その退陣と民主主義の復権をアピールした。11月に、カンボジア独立記念日に合わせタイなどを経由して帰国しようとしたが、タイはじめ各国は、カンボジア政権に「配慮」してか、足止めを食い、すんなりと故国の土を踏めなかった。
 レンシー氏率いる救国党は、かつて与党に迫る議席を得ていたが、2015年、政府批判による名誉毀損の疑いで、自身が逮捕される恐れが強まり、海外に逃亡。2017年には救国党が解党処分となり、党首を引き継いだケム・ソカ氏も国家転覆を謀った疑いで逮捕され、今も自宅軟禁中の身の上だ。2018年の総選挙では与党が全議席を独占した。これがいまのカンボジアの政治状況である。

 サム・レンシー氏とは、過去に何度かインタビューしている。ポル・ポト政権時代の虐殺問題を裁く特別法廷設置問題などが取材テーマだった。華麗で波乱な経験・経歴を持つ人物だ。プノンペン生まれで、高校を卒業後、パリに留学し、パリ政治学院を卒業、経営学修士課程も修了。フランスで経営コンサルタント会社を切り回していた。
 その後、1992年に帰国し、シアヌーク殿下によるフンシンペック党設立に参加、最高国民評議会でラナリット第1首相と2人で党代表を務める。国会議員、財政経済相となり、経済改革と汚職追放などを訴え国民の人気を集めたのは記憶に新しい。
 しかし、「出る釘は打たれる」である。政争の末、更迭され、党からも除名、国会議員の地位のはく奪、と不運は続く。その後、フランスに滞在するが、再度帰国し、1998年サム・レンシー党を旗揚げ。政権に対する徹底した批判で支持を広げ、フン・セン首相と対立を深めた。この後もフン・セン政権からの圧力で、フ
ランスへの避難・滞在―カンボジア帰国、の状態だった。
 今回、レンシー氏は、タイ国境から陸路でカンボジアに入る計画だった。 しかし、パリの空港でタイに向かう便に搭乗しようとしたが、タイの航空会社が拒否。タイからマレーシアに行き先を変えたが、マレーシア当局に一時拘束された。その後、インドネシアに向かったという。
 フン・セン政権は東南アジア諸国連合(ASEAN)各国にレンシー氏の帰国に協力しないようにと言明していた。ASEANは、内政不干渉が原則で、逮捕状が出されている人物の取り扱いについて、国によっては、対応が違う。「ASEANは団結し、一つ」とよく言われるが、そうではなく「(各国が)一つずつ」が実態に近いのか。 


ワード・ポリティクス
   (2019年11月 30日)

 バンコク近郊で11月に開かれた東アジアサミットなど一連の会議にトランプ米大統領が欠席したことについて、東南アジア諸国連合(ASEAN)から反発の声が上がった。「東南アジア軽視」との指摘も見られた。
 反発の強さは、夕食会において、代理の米代表を務めたオブライエン大統領補佐官(国家安全保障担当)が集合写真で、最後列の端という末席をあてがわれたことでも分かる。トランプ大統領の東アジアサミット欠席は就任後から3年連続である。米国が閣僚すら派遣しなかったのは、2011年に東アジアサミットに加わってから初めてという。
 ASEANは米国との首脳会議では、加盟10カ国のうち、首脳の出席をタイと来年の議長国ベトナム、米国との調整役を担うラオスの3カ国にとどめ、7カ国首脳が参加を見送った。対抗措置だろう。
 この米首脳の欠席で、思い出すのが2005年のラオスでのASEAN外相会議だ。外相会議のほかASEANプラス3(日中韓)、地域フォーラム(ARF)が開かれたが、日本から外相は欠席、副大臣が代理出席した。1994年にARFが発足して以来、日本の外相が欠席したのは、初めてだった。ASEANに向けた「軍事大国にならず、相互信頼を構築し、対等の協力者の立場で平和と繁栄に寄与」という内容の「福田ドクトリン」(1977年)以来、日本は、これを指針に、官民挙げて友好関係を深めてきた。外相欠席は、その努力に水を差した、との批判があった。
 
 いま、世界はグローバリズム、インターネット普及などの科学技術の進化で、多様化・複雑化している。経済的相互依存を深めながら、きしみがちな国際秩序の再構築を模索としている、と感じる。
 『ワード・ポリティクス』(筑摩書房、田中明彦著)などによると、軍事力・経済力といったハード・パワーも必要だが、それは、国際舞台でのワード・パワー(言力)によって補強されないと十分に効果を持てなくなってきた。国としてのアピール力の問題だ。
 例えば、この一連のASEAN会議である。多国間の会議だが、各首脳・閣僚らが2国間外交を繰り広げる場でもある。多元的外交が求められ、それをまとめあげ、総合的な判断を下せる首脳や閣僚自らが出席しなければならない局面が続く。
 そうした場においては、最高の情報収集者・発信者が、首脳・閣僚なのだ。当然、ワード・パワーの競い合いが見られ、その説得力に勝った国の方針・政策が、さまざまなメディアによって流され、国際的評価が下される。
 トランプ米政権は「自由で開かれたインド太平洋」構想を推進している。それでありながら、ワード・ポリティクスを展開できる絶好の場にいなかった。戦略ミスだろう。 



煙害(インドネシア)
   (2019年11月 15日)

 再選されたインドネシアのジョコ・ウィドド大統領の2期目の就任式が行われ、は「インドネシアは、2045年には国内総生産(GDP)で世界のトップ5入りを果たす」と述べたという。2期目の任期中に、さらなるインフラ整備、人材や輸出産業の育成などで「トップ5」への基盤作りを目標にしているのだろう。
 その意気込み、気概も結構だが、少し待って考えてほしい。9月、10月になると、インドネシアのカリマンタン(ボルネオ)島やスマトラ島で、山火事が相次ぎ、近隣諸国にまで煙害が広がっている現実がある。今年は乾燥した気候が続き、最悪レベルだった2015年以来の被害になるとの指摘もある。報道によると、カリマンタン島では、一時、マレーシア側の約400の学校が休校となり、15万人以上の生徒に影響した。マレーシア政府によると、首都クアラルンプールや周辺では、濃いスモッグに覆われる日もある。スモッグはシンガポールまで及んでいる。タイ南部では住民にマスクの着用を呼び掛ける地域も出ているという。
 インドネシアでは乾期に、野焼きなどが原因とみられる森林火災がひんぱんに起きている。東南アジアの熱帯雨林は、プランテーション開発などにより大きく減少。野焼きは禁止されているものの、開発のため火を放つ例が後を絶たない。
 泥炭を含んだ土壌に燃え広がり、オランウータンなど野生動物の減少にもつながっているとされる。
 この事態は、いまの「世界の動き・標準」からすると異常である。グローバルビジネスの世界一つを見ても、国連が提唱する持続可能な開発目標(SDGs)の17の目標と169のターゲットとつなぐ事業活動をしなければ、市場から退場させられかねないという危機感がある。SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だ。
 SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、地球環境への目配りを土台に構え、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標だ。17の大きな目標と、それらを達成するための具体的な169のターゲットで構成されている。「貧困をなくす」、「飢餓をゼロに」などのほか、健康や教育、さらには安全な水、豊かな陸と海、を目標にして、各国はSDGs達成に向けて努力している。
 インドネシアの煙害は、まさにこれに逆行している事態だ。巨大なGDPの実現は、国家目標かもしれないが、それだけでは、「大国」と呼べない時代になっている。SDGsは、総合的な国家のあり方を監視しているのだ。 



ダイバーシティー(多様性) 
(2019年10月30日)

 五輪やサッカー・ワールドカップ(W杯)と並ぶスポーツの世界的イベントのラグビーW杯日本大会は、大きな盛り上がりを見せた。日本代表の活躍ぶりに「ラグビー好き」が増える一方で、日本代表の姿は、これからの日本社会の在り方を考える機会を与えたと感じた。
 ラグビーは外国籍でも一定の条件を満たせば代表選手になれる。日本代表も多くが海外出身で、主将のリーチ・マイケル選手は日本国籍を取得したがニュージーランド出身である。
 合宿中、リーチ選手は日本の歴史や文化をチームで学ぶ場を設けた。人種や民族の違いを乗り越え、思いを一つにし、結束を図った。その姿勢に学ぶところは大きい。

 チーム内で多様な文化を受け入れ、共生を目指しながら戦うのがラグビーW杯だった。
 大会中、新聞でこんな記事を読んだ。インドネシア在住の日本人ラガーマンの紹介だ。
 現地で商社を営む人(34)だが、2015、16年にインドネシア代表選手として活躍したという話である。同志社大では「1軍選手」だったが、練習試合で負傷し大学選手権への出場がかなわず、卒業後は競技から離れた。その後、ジャカルタに赴任し、アマチュアチームに入った。
 トレーニングを積み、代表資格要件の一つである「連続で3年以上居住」を満たすと、2015年6月、国旗と同じ紅白で彩るインドネシア代表のジャージーを身に着けることができた。
 代表チームにはニューギニア島出身者や米国人もいた。パワフルで高い身体能力を持つチームメイトに、日本ラグビーを知る、この人が細かい技術や結束力の大切さを伝えた。
 2015、16年に出場した3試合は全敗だったが、母国が異なる選手たちと同じ競技場に立ったことが意義深かったという。

 今大会では、日本代表は強豪アイルランドを破るなど躍進した。外国人選手は、出身国を含め多様なチーム選択肢があるなか、日本代表チームを選び、日本のために頑張った。
 インドネシア代表の世界ランキングは、いま100位程度だというが、いつか、インドネシアから、東南アジアから、フィジーやトンガのように日本の高校にラグビー留学するような若者が出てきて、日本代表選手として頑張る日が来るかもしれない。
 社会のダイバーシティー(多様性)が進んでいる。多様性ある人材が、さまざまな価値観やスキルを出し合いながら、向き合うことが必要になってきている。 さまざまな分野で、それぞれの多様なスキルを出し合う「チーム制」のようなシステムが求められているという。ラグビーW杯日本大会が、それを教えてくれた。



 日韓関係
   (2019年10月 7日)

 茂木敏充外相が9月末、ニューヨークで就任後初めて韓国の康京和外相と会談した。いうまでもなく、両国間の外交・防衛・経済問題の解決の糸口を模索するためで、元徴用工問題への対応などについても協議したとみられるが、主張の隔たりは縮まらず、
進展は感じられない。
 日本を訪れる観光客も減っている。報道によると、今年8月に日本を訪れた韓国人旅行者数は、前年同月比48・0%減の30万8,700人だった。この減少幅は東日本大震災が発生した直後とほぼ同じ水準。日韓間の航空路線の運休便が多くなり、九州、北海道などの観光地が打撃を受けている。
 こうした話をつなぎ合わせると「日韓関係は過去最悪」、「反日感情はかつてないほど…」という図式になりがちで、双方のメディアの多くがそう叫ぶ。しかし、本当にそうだろうか。
 ここからは私の見解である。「偏見」と受け取る方もいらっしゃるだろう。
 訪日韓国人の観光客数は、昨年は、約750万人にまで達した。中国に続いて第2位だ。日韓間のLCCが増えたなどの理由があるが、日本の人口の半分程度の約5,000万人の韓国からの観光客が、こんなに多いのは「異変」に近い。

 「関係悪化」と指摘されるが、そもそも1910年に日本が朝鮮半島を植民地支配してから、1965年の日韓基本条約締結以来、日韓関係が心底から「良好」と断言できた時期はあっただろうか。
 ずっと良い状態ではなく、その一方で「過去最悪」と言われた時期は何回かある。
 例えば文世光事件。1974年8月15日に朴正煕大統領(当時)の夫人、陸英修さんが在日韓国人の文世光に射殺された事件である。この日は日本からの解放記念日で光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、大統領夫妻が出席していた。
 狙撃に使われた拳銃は大阪の派出所から盗まれたもので、この事件を発端に、日韓関係は、険悪の状態に陥った。連日、ソウルの日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、群集が乱入する事態になった。国交断絶寸前にまで至った。当時、大使館に勤務していた外務省職員から直接、「乱入してきた暴徒に殴られ、生きた心地もしなかった」と聞いたことがある。
 そういう事態がいま起きているのか。昨年は、
約750万人が訪れていた韓国人観光客。「本当に大嫌いな国(日本)」にそんな膨大な数の観光客が訪れるのか。この半年、1年で「日本に行きたい。楽しみたい」という、その心情が激変するとは考えられない。韓国人観光客の減少は、熱がさめ「平常値」に戻りつつあることと、外交・防衛分野のこじれが、直接、影響しやすい観光客の足に「日本を敬遠」の文字を刻んだのだ、と思う。
  冷静に分析すれば、日韓関係は、あらゆるところで「悪化」しているのではないと感じる。極度に悪化しているのは、日韓の現政権間である。韓国大統領の任期は1期5年。日本の長期政権もそろそろ…だ。潮目は変わる。


 パプア(インドネシア)
   (2019年9月16日)

 インドネシア東端にあるパプア、西パプア両州で、暴動が発生し、地元議会の庁舎が放火されるなどの事態となった。パプア独立派の学生の活動家らが身柄を拘束された事案があり、これが抗議行動につながったとみられる。
 デモは拡大し、デモ隊と治安部隊の双方に死傷者が出るまでに対立は先鋭化している。差別的な境遇に不満を持ってきたパプア出身者らによる、分離独立を求める政治運動の様相を強めてきた。
 かつてオランダの植民地だったパプアは、1961年に独立を宣言。その後、国連の支援下で行われた独立をめぐる住民投票を経てインドネシアがパプアを支配下に置いた。
 インドネシア独立記念日の8月17日には、第2の都市スラバヤで、パプア出身の大学生約40人が身柄を拘束されたという。デモのきっかけは、この日、治安当局者らがパプア出身学生を「サル」と呼ぶ差別的な言動をしたことだった。これに対する抗議デモで
一部が暴徒化し、治安部隊との間で銃や弓を使った武力衝突に至ったという。
 インドネシア領パプアでは、インドネシア政府による統治への抵抗が長く続いている。そもそも独立を巡る住民投票に「不正あり」の指摘があり、不満がくすぶってきた。その「歴史的怨念」が根付く。今回の暴動の発端となった学生の拘束も「インドネシア国旗を損壊した」とされ警察の機動隊が、催涙ガスを使って、強制連行したという。
 この事態に接し、思い出すのは、東ティモールの独立劇だ。東ティモールは、1975年にインドネシアの軍事侵略により不法占領された。翌年、インドネシアは
東ティモールをインドネシアの州と宣言したが、国際社会の多くは、この併合を認めなかった。
 東ティモールでは、インドネシアの圧政からの解放を望む声が絶えなかった。1998年にスハルト大統領率いる独裁政権が倒れ、次政権が東ティモールの独立容認の姿勢を見せたことで、解放・独立のチャンスが訪れた。翌1999年8月、国際連合の支援のもと、住民投票が行われ、独立が決定したが、これを不服とした反対派民兵とインドネシア国軍が住民を襲撃するなど抵抗した。
 こうした混乱ぶりについてジャカルタを拠点に取材した経験を持つ。一連の危機を乗り越えて東ティモールが、国連の支えもあって独立を果たすのは、やっと2002年である。
 インドネシア政府としては、東ティモールと同じ展開は避けたい局面だ。現地には軍隊を派遣し、警戒に当たっているが、「力による鎮圧」は、香港で見られるように限界があるといえよう。 


 スカイ・トレイン(タイ)
   (2019年8月31日)

 今夏、ベトナム中部のダナンに行ってきた。リゾート開発が進み、ビーチ、町並みは清潔で美しく、車やオートバイの運転は、ホーチミンやハノイよりもせわしくなく、横断歩道も安全に渡れた。
 しかし、身近な公共交通機関が乏しく、ダナン市内や隣の観光名所のホイアンに移動するには、ホテルのタクシーに頼らざるを得なかった。観光客にとって不便だ。ここがタイ・バンコクとの違いだろう。

 ダナン滞在を終え、空路、タイのスワンナプーム国際空港に向かった。空港直結の「エアポート・レール・リンク」に乗り、終点のパヤタイ駅で降りて、スカイトレインに乗り換えると、2駅で都心のサイアム駅に着く。このスカイトレインを利用すればバンコク市内の主要な場所に行ける。
 運賃は安く、車内は快適。ラッシュ時は大混雑するが、こんな便利な交通手段が首都に整備されているのは、東南アジアでは、シンガポール、マレーシアぐらいだろう。

 スカイトレイン――この高架鉄道は、運営会社の「Bangkok Mass Transit System Public Company Limited. (バンコク大衆輸送システム社)」の頭文字を取って「BTS」と呼ばれるが、ちょうど、わたしが日本の新聞社の特派員としてバンコクに駐在している時期に完成した。
 スカイトレインの計画が正式に決定したのは、1992年。 建設は1995年に開始され、1998年12月のバンコク・アジア大会に間に合わせる予定であったが間に合わず、翌年の1999年12月の開業となった。遅れたとはいえタイを「震源地」とするアジア通貨危機
(1997年7月)にもかかわらず、スカイトレインを完成させたタイの「底力」に感心したのを思い出す。
 当時開業したのは、スクンビット線のモーチット駅〜オンヌット駅間、シーロム線のサナームキラーヘンチャート駅(国立競技場)〜 サパーンタークシン駅だった。
 しかし、直下の道路を走る路線バスより運賃が割高のため、当初は乗客数が少なく、ラッシュ時でも楽に座れた。自宅のあるスクンビット地区のプロンポン駅からチットロム駅まで快適な通勤だった。
 経営の方は大変で、負債を返済できない状態が続いていたが、2002年に初めて黒字を記録したという。アジア通貨危機が収まり、 タイ社会、とりわけバンコク首都圏が豊かになり、交通手段にも「快適さ」が求められてきたのだ。
 その後、路線は郊外へ延伸し、乗客数は激増。いまでは主要駅では、ラッシュ時はホームに人があふれ、乗り切れず、満員電車を見送る状況が続いている。切符を買うのも大変だ。

 それでもスカイトレインに乗るのは心地よい。お年寄り、子どもが乗ってくると、学生らがさっと、さりげなく、座席を譲る。心がなごむ。


 ASEAN外相会議(タイ)
   (2019年8月17日)

 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、先月末にバンコクで外相会議を開いた。ベトナムなどが中国と領有権を争う南シナ海問題が話し合われた。終了後、中国の動きを念頭に「埋め立てや活動、重大な事件」について「一部閣僚から懸念が表明された」
との共同声明を発表した。

 報道などによると、「深刻な懸念」との表現を共同声明に入れるかどうかで外相会議は紛糾したという。ベトナムは盛り込むよう要求したが、親中国のカンボジアなどが応じず、結局、「深刻な」は付けられず、単に「懸念」という表現に落ち着いた。
 何度もあったような気がした結末である。それでも当初の声明案より表現を強めたという。南シナ海における中国の対艦弾道ミサイル発射実験が明らかになり、最近、中国と領有権問題を抱えるフィリピンやベトナムとの緊張が高まっていたことが背景にある。
この海域における米中対立の構図が再び鮮明化しつつある。

 ASEANは、「内政不干渉」が原則で、ミャンマーの軍事独裁政権の民主化運動弾圧など域内の重要問題に手を出せず、なすがままだった。欧米諸国が皮肉を込めて、ASEANを「NATO(ノー・アクション・トーク・オンリー=行動なし、おしゃべりだけ)」と指摘したこともあった。
 各種の会議は一年に1,000回とも言われ、意思決定は内政不干渉とともにコンセンサス(全員一致)が原則。性急な多数決が肌に合わず、結論が出るまで時間がかかり、NATO(ノー・アクション・トーク・オンリー)と揶揄されたのだろう。

 しかし、この「中小国の集まり」が、いまやアジア・太平洋の重い存在になっている、と思う。ASEANを核にした国際組織がいくつもある。
 例えば、ASEAN地域フォーラム(ARF)は、ASEAN10カ国のほか日中韓、米ロ、北朝鮮、EUなど多くの国・機関が参加している。毎夏、ASEAN外相会議に合わせて開かれ、安全保障問題などについて話し合われる。
 それぞれの国は、安保問題を巡る立場、政策は異なるが、「超大国が存在しないASEANに任せれば会議は実りあるものになる」との安心感があるのだろう。

 また、ASEAN会議の開催場所で、参加国同士の2国間会談が頻繁に開かれるのも特色だ。その時期における重要なテーマが話し合われ、国際的に注目される。今回も、日本と韓国の外相会談などが開かれ、非公式の接触・会談に至っては数えきれないほど行われただろう。
 ASEAN会議開催の場、という安心感があるからだ、と思える。


 女性進出
   (2019年8月1日)

 今回の日本の参院選挙は、自民党が改選前より議席を減らしたものの自民、公明の与党で多数派を維持した。衆参の2院制をとる日本では参院は「熟議」が期待される。解散のある衆院と異なり、参院議員には6年間の任期が保証され、政党間の対立とは距離を置き、政策を論じることが求められているのだ。その意味でも、フレッシュな女性の進出が期待された。
 結果は、28人の女性が当選し、過去最多だった2016年の前回参院選と同数だった。改選議席が124と前回より3議席多いため、当選者に占める割合は22・6%と前回(23・1%)より低かった。
 国際的に見ると、女性議員の割合が最も高い国は、アフリカのルワンダで、女性の比率は55・7%。20年ほど前は、トップ10は欧州が大半だったが、この5年間でアフリカ、中南米が高い比率を示してきた。日本は140位前後で、アジアは全般的に低い。東ティモール、フィリピン、ラオス、ベトナムが30位台から60位台に名を連ねている程度だ。

 スポーツ界での女性進出を調べると、「ブライトン・プラス・ヘルシンキ宣言」というのが目に留まった。
スポーツでの男女平等を目指す国際女性スポーツワーキンググループによる提言で、1994年にイギリス・ブライトンで開催された「第1回世界女性スポーツ会議」で「ブライトン宣言」として採択。
 2014年にフィンランドのヘルシンキにて開催された「第6回世界女性スポーツ会議」で見直しが行われ「ブライトン・プラス・ヘルシンキ宣言」として新たに承認された。
 ◆スポーツの機会を男女均等に提供
 ◆女性が安心して使える施設の確保
 ◆役員やコーチなど組織の意思決定を担う女性を増やす
など10項目の行動計画から成る。
 これまで各国政府のほか国際サッカー連盟などの団体が署名。 日本でも2017年にスポーツ庁や日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会など主要5団体が署名している。
 最近、女子選手の活躍が目立つ日本だが、引退後に競技団体の役員になるケースは少ない。昨年10月の調査によると、加盟117団体で女性役員の割合は11.2%にとどまった。女性役員ゼロの競技団体もあったという。世界のスポーツ界が目指すのは、40%である。

 選挙に話を戻す。男女の候補者数をできるだけ均等にするよう政党に努力義務を課す「政治分野における男女共同参画推進法」施行後、今回が初の国政選挙だったが、男女均等への道のりは遠い結果だった。どの分野でも一定割合を女性にする「クオータ制」の導入を本格的に検討する時期にきているのでは。


 デモ(香港)
   (2019年7月20日)

 香港で中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案に反対する大規模デモが続いた。した際「1国2制度」が適用され、それが50年間続けられることを保証された。
 今回、その保証がなし崩し的に「無」になる、と香港民衆は感じ取り、改正案の完全撤回を求めている。
さらには、民主的な選挙制度の実現なども訴え始めている。
 そもそも「逃亡犯条例」は、返還前に制定され、条例の対象から中国は除外された。香港は米英など20カ国と犯罪人引き渡し条約を結んだのだ。
 香港にはかつて中国大陸の騒乱・内戦状態から逃れた人々やその子孫が多く住むが、人が中国に引き渡された例は見当たらないという。香港にいる限り、中国の法律が適用されることはないという安心感があった。条例改正はそれが許されないことを示唆する。
  「1国2制度」にもかかわらず、中国はしばしば、香港の民主化の動きに介入してきた。その反発が2014年に学生らが中心部を占拠する雨傘運動につながった。中国に批判的な本を扱っていた書店店主らが失踪し、中国で拘束される事件も起きた。
 香港をビジネスの拠点にする外国企業も警戒を強めているという。外国人も対象になりうるからだ。中国関連で仕事をする外国人は中国の司法制度の閉鎖性、問題点を肌で感じている。
 それもそうだろう。香港は、アジアの自由な貿易の拠点、金融センターとして発展してきた。自由に歩き回れる観光地としても人気を集めてきた。
 日本がバブル経済で浮かれていた1980年代の終わりころ、「黒いマネー」の取材で香港に行ったことがある。当時、日本は株式・不動産市場が沸騰し、億万長者が多数、生まれた。転がり込んできた大金をどうするのか。「ごっそり当局に税金で持っていかれるのは困る」と一部の資産家は札束をバッグに入れ香港に運んだ。香港の街には日本人が駐在する「謎の事務所」があり、そこでペーパーカンパニーを作ってもらい、現地に銀行口座を開く。そこに持参した大金を預ける。場合によってはその口座から他国の銀行にも移し替えられた。その後、香港は税逃れの地の汚名を返上するため、こうした金の流れを厳しくチェックしてきたわけだが、それでもカネは規制の隙間を狙って動く。
 これは、香港の自由・カネにまつわる負の部分の一端だが、ヒト、モノ、カネが自由に動き回るリズム、
機能、体質や人々の意識は返還後もそんなに変わるものではあるまい。
  香港には、それを支える自由な言論をはじめとする民主社会が必要、ということだ。


 板門店首脳会談と日本
   (2019年7月8日)

 米国のトランプ大統領が、6月30日、朝鮮半島の南北軍事境界線上にある板門店で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と会談した。トランプ氏は現職の米大統領として、初めて北朝鮮の領内に足を踏み入れた。
 朝鮮戦争が始まったのは1950年の6月。対立の象徴である板門店における宿敵のトップ同士の出会いに世界は驚いた。
 トランプ大統領は、金正恩委員長と軍事境界線をはさみ、握手を交わした後、北朝鮮側に入った。
そのあとトランプ大統領と金正恩委員長は、韓国の文在寅大統領も加わり、韓国側施設「自由の家」に。
米・朝・韓の首脳が一堂に会するのは初めてである。
 かつて板門店の付近にはノル門里(ノルムンニ)という名の村が存在していたという。ノル門里は「板で出来た門のある村」という意味で、朝鮮戦争休戦協定の協議が行われていた1951年に、中国の代表者が会場を探しやすくする目的で近くの店に設置した看板名に由来している、という。

 軍事境界線は南北朝鮮の「分断ライン」で、板門店は、唯一、双方が接触できる場だ。会議場が置かれ、北側には「板門閣」が南側に「自由の家」と「平和の家」が設置されている。
 日本の新聞社のソウル特派員時代、この板門店で軍事境界線を往来したことが幾度かある。1990年代の前半は、南北融和のムードが漂い、首相会談がソウル、平壌で交互に開かれた。会談前の実務者協議は板門店の南北の施設で行われ、日本を含め、在ソウルの特派員が同行・往来した。
 朝鮮戦争で北地域において戦死した国連軍兵士(米軍中心で豪・比・タイなども参戦)の遺骨返還式もたびたび行われ、軍事境界線をまたいで取材したものだった。
 また、ここを観光客として、南北両側の施設から1週間足らずのうちにそれぞれ眺めたこともある。北京経由で平壌に入り、陸路、板門店に向かった。北側から、1週間前に訪れた南側の施設を眺めた。
 今度は、軍事境界線の向こうから米韓兵が双眼鏡などでこちらを監視している。奇妙な感じだった。
 こうした個人的感慨もあるが、板門店は、やはり特殊な場である。気持ちを高揚させる。
 トランプ大統領の親書やツイッターなどを通じて電撃的な首脳会談が実現し、停滞する非核化交渉の再開に向け、米朝双方で交渉チームを作り、協議を始めることで合意。トランプ大統領は金正恩委員長をホワイトハウスに、金正恩委員長は平壌にトランプ大統領を招待するとそれぞれ伝えたという。

 一方、この電撃的な米朝首脳会談で全く存在感がなかったのが日本だ。「無条件で金正恩委員長と向き合う」と日朝首脳会談をアピールしているものの
「(安倍総理の)面の皮はクマの足の裏のように厚い」と以前よりも強い反発を受けている。
 5月の日米首脳会談で「トランプ大統領からも『全面的に支持する』『あらゆる支援を惜しまない』との力強い支持をいただいた」(共同声明)と誇らしげに語った言葉が、板門店の米朝首脳会談で一挙に崩れ落ちた。


イーストとウエスト(マレーシア)
   (2019年7月1日)

 マレーシアのマハティール政権が発足してから5月で1年が経った。劇的な政権交代だった。世論の評価は、マハティール首相の支持率は就任当初は70%台。それが最近は40%台へと落ち込んでいる。
 この1年間は、「汚職、不透明な財政など前政権の不始末の清算に奔走し、経済政策推進におけるリーダーシップ発揮といった持ち味が出せなかった」との指摘もある。
 そのマハティール首相が来日し、5月30日に日本外国特派員協会で記者会見した。1981年から22年間、首相を務め、再び政権の座に返り咲き、一帯一路を示し経済協力を進める中国に対して、コストが高いと前政権で結んだ契約を改めるなど、存在感をアピールした。
 なにしろ日本を模範とする「ルックイースト政策」を推進してきた人物だけに日本での注目度は高かった。この記者会見でも、貿易摩擦など米中の対立について「いかなるためにもならない」と批判、年齢(93歳)を感じさせない精力的な話しぶり、豊富な経験をもとにした指摘・主張は、聞く人を引きつけたようだ。
  「ルック・イースト政策」という「日本をはじめとする東アジアに学ぼう」とする精神運動。それがマレーシアの経済発展につながり、いまは先を行く主要国の後ろ姿も見えてきた。
 しかしマレ−シアは「ルックイースト」だけではない。近年顕著になってきたのは「ルック・ウエスト」の姿勢である。マレーシアの企業がサウジアラビアなどの企業との間で事業契約するなど中東諸国との結びつきを深めている。
 人口の約6割をマレー系のイスラム教徒が占めるマレーシアは、イスラム協力機構(OIC)に所属している。この「イスラムへの傾斜」の背景にあるのは、中東諸国を潤してきた石油収入だ。
 そして今後20年で世界の人口の3分の1に達するといわれるイスラム教徒、イスラム諸国の存在感の大きさだ。いまも北アフリカから東南アジアにかけての「イスラムの弧」には13億人のイスラム教徒が住む。当然、ヒト、モノ、カネ、情報が動く。巨額なマネーを「ルックイースト」で学んだノウハウと実績で呼びこみ、活用しようというのがマレーシアの狙いだ。「中東マネーのアジアでの一大集散地」になろうとしているのだろう。
 マハティール政権は「ルック・イーストとともにウエストも」と広角外交に視点を定めている。
  

巨大民主主義(インド)  
(2019年6月1日)

 歴史的に東南アジア諸国は、ヒンズー教をはじめインドの文化的影響を色濃く受けてきた。だが、ASEAN(東南アジア諸国連合)結成以来、域内の結束と経済成長を重視したタイなど各国の視野からインドは、次第に遠ざかっていった。北の大国・中国の台頭もあり「西の大国は、影が薄い」という感じだった。
 しかし、IT(情報技術)が進化するにつれインドの存在感は、急速に増してきた。ASEANが、中国にあまりに気をとられているうちに「インド人の頭脳」が国際的に広く、高く評価されるようになったのである。インドがITで成長を続け、日本や欧州の企業が、その頭脳に注目し、積極的にIT人材を活用している。米国でもインド人技術者がIT関連産業の柱になっている。
 インド人のち密な頭脳について日本の商社マンがこんなことを言っていた。
 「彼らの頭の中には多くの『引き出し』があり、その奥の方からひょいとアイデアをひねり出してくる感じだ。日本人と構造が違うのかな」。脳の重層構造である。そこで培養されたさまざまなアイデアが絞り出されてくるのだろう。

 そのインドは、周辺で港湾施設を建設するといった、影響力を拡大する中国を警戒しながら、東南アジア諸国との経済関係強化を模索している。 昨年1月には、モディ首相は、首都ニューデリーで、ASEANと首脳会議を開き、海洋分野での協力関係強化で一致した。モディ首相はASEAN諸国との関係強化に取り組むと表明。貿易はすでに「25年間に25倍に拡大した。
 貿易関係をさらに強化し、経済界の交流促進に向け取り組む」と述べたという。こうしたASEANとの関係を含めた今後の近隣外交や、対中、対米関係の行方を大きく左右しかけないインドの選挙(下院定数545)が実施され、5月23日に一斉開票された。
 国土が広いため投票は4月11日から7回に分けて順次実施、有権者数が約9億人という「世界最大の民主主義国」を象徴する選挙である。
 結果は、モディ首相率いるインド人民党(BJP)が303議席を獲得し単独過半数を占めた。モディ政権の圧勝である。
 ただヒンズー至上主義のモディ政権下で、多様さへの不寛容が広がった側面も大きく、社会の分断が深まっている。2002年の西部グジャラート州のヒンズー至上主義者による暴動で、イスラム教徒を中心に多数の死者が出た。当時、州首相だったモディ氏が暴動を「黙認」したと指摘もある。
 モディ政権がさまざまな価値観にどう対応するかに心配が残る。



寛容と不寛容/モスク銃乱射事件  
(2019年4月1日)

 3月15日 、ニュージーランド南部のクライストチャーチにあるイスラム教のモスク(礼拝所)で銃乱射事件が起き、多数の人々が死亡した。容疑者は、礼拝者を無差別に撃ち続け、モスク内は血の海と化した。襲撃の様子を装着したカメラを使い、インターネットで生中継する異常さだった、との報道もあった。容疑者の20代の男は、犯行声明で欧米社会への移民を「侵略者」と敵視していた。
 イスラム教徒の存在を、その敵視対象に直結させたのだろう。 一昨年のロンドンでのイスラム教徒襲撃テロに触発されたともいう。この事件に対し、アーダーン首相は「過激な思想を持った容疑者によるテロ攻撃だ」と述べた。背景には白人至上主義や排外主義がありそうだが、容疑者らにはイスラム教に対する「誤解」と見当違いな「おびえ」が根元にあった、ように思える。

 ニュージーランドと地理的にそれほど遠くないインドネシア。イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラム教徒人口を抱える。が、多民族国家で、言語と同様、宗教も多様だ。宗教分布が存在し、例えば、バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が優位にある、という具合だ。統計によると、イスラム教信者が87%を占めるが、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教信者も比率が少ないものの居住する。
 このインドネシアを含め「東南アジアのイスラムは穏健」と言われてきた。東南アジアに、アラブからインドを経てイスラム教が信仰体系として伝わるのは、9〜10世紀ごろ。沿岸の都市や島しょ部で中心的な宗教として定着するのは13世紀以降である。一方、この地、東南アジアにはすでに神秘的な精霊信仰、固有文化が根ざしており、イスラム教もこうした土着文化・信仰と妥協の上で受容されてきた、といえる。イスラム教が持つ固有の習慣なども薄められる結果となった。
 こうした歴史からインドネシアやマレーシアなどでは「アガマ(宗教)は海から来て、アダット(習慣・伝統)は山から来る」という言葉が残された。海から来たイスラム教などの宗教を巧みに取り入れ、伝統の中に融和させてきた「アジアの知恵」を感じる。他宗教、他民族、他言語に対する「寛容の心」がそこに芽生える。
 ニュージーランドの乱射事件の容疑者らは、こうした事情に疎い「偏見のかたまり」であり、「イスラム教=過激宗教」という一方的な図式しか描かなかったのか。それにより「不寛容な心」が芽生え、増幅し、モスク襲撃に至った、といえるだろう。

トンネル(ベトナムの変貌) 
(2019年3月20日)

 3月初旬にベトナム中部のダナンとフエに行ってきた。今回の訪問で印象深かったのは、この地域の急発展ぶりだ。
 ダナンからフエまで旅行社手配の車を利用した。片道約2時間。10数年前に行った時は、3時間はかかっていた。道中の交通難所が、ハイバン峠だった。ベトナムの国土は南北に細長く伸びているが、この峠周辺で東西の間隔が狭まる。ハイバン峠は海に突き出ている岬を通過するため、霧がたちこめる日が多く、これが「海雲(ハイバン)」という地名のもとになったという。
 この峠を貫くトンネルが2005年に完成した。全長6.3キロ。4年の歳月をかけての工事で、東南アジアで最大級のトンネルである。日本の政府開発援助(ODA)が供与され、トンネルの入り口の壁には、日越の国旗が描かれ「友好のトンネル」を示している。これにより、行程が1時間短縮されたわけだ。

 ベトナムを南北に結ぶ大動脈の国道1号線だけに、その時間短縮、安全運転の確保は地域間の物流・交流促進につながると同時に、ハノイ地域、ホーチミン市周辺に比べ、発展が遅れていた中部地域の活性化を促した、といえる。
 中部地方の発展の遅れは、政治・軍事事情も影響してきた。ベトナム統一以前は、南北の軍事境界線(北緯17度)が敷かれ、ベトナム戦争時は激戦地だった。地形的にも国土が東西で一番、狭くなったところで、「ベトナムのアキレスけん」と言われていた。
 東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国の大陸部を貫く「東西回廊」の道路整備――タイ・ラオス側からハイウェイを延伸し、ダナンまでつなぐ道路建設計画に対して、ベトナムは当初、建設にそれほど乗り気ではなかったとの指摘があった。「この東西回廊を他国勢力に制圧されたら南北に分断される形になる」という安全保障上の懸念があったからだろう。
 しかし、この「東西回廊」は、ベトナムからインドまでを結ぶ新たな大動脈も視野に入る。インド、ミャンマー、タイで生産された工業製品などがダナン港に集まり、中国、韓国、日本へと続々と積み出されることになる。交通難所だったハイバン峠に近いダナンが、交通の要衝になる。

 そのダナン。市内を流れる川の岸辺は整備された遊歩道が続き、夜になると橋や川岸はイルミネーションで輝く。ベトナム戦争時に米軍が上陸した海岸沿いには、海鮮レストラン、カフェなどが立ち並ぶ。おみやげさん、高級ホテルなどは、フランス、米国、韓国人、日本、中国などからの観光客でにぎわう。それを眺めているとシンガポールにいる気がしてきた。

陸続き   
(2019年2月20日)

 タイ北部で行方が分からなくなっていた認知症の女性(59)が、自宅から約700キロ離れた中国・雲南省昆明で保護され、1月にタイに無事帰国した。女性の行方不明になったのは、昨年6月のこと。どのようにして中国にたどり着いたのか。
 メディアによると、女性はチェンライに住んでいた。「中国に住んでいる息子や親戚に会いに行った」などと話している。 タイ北部から中国に行くにはミャンマーやラオスの国境を越えなければならないが、どのように通過したかも分かっていない。昆明まで歩いた可能性が強い。
 中国の警察が1月下旬、昆明の高速道路を歩いていた女性を保護し、所持していた身分証明書から身元が判明、タイで行方不明となっていた女性だと分かった。女性は「自分で歩き続けた。国境を越えたことには気付かなかった。道中の店で食べ物をもらって飢えをしのいだ」と説明しているという。

 徒歩で陸続きのよその国へ――このニュースに、海に囲まれて暮らしている日本人の多くは、「感覚の差」を感じたと思う。この女性の移動についてもう少し「歴史」を掘り下げてみて考えてみたい。タイ族や周辺に住む民族の多くは中国南部に「ルーツ」があると言われてきた。女性が保護された雲南省に「シーサンパンナタイ族自治州」がある。人口のうちタイ族が三分の一を占める。中国南部の一民族だったタイ族がメコン川を回廊にして南下し、エネルギーを蓄えながら王朝を形成していった。ラオスのラオ族も同じような建国プロセスをたどった。
 タイ族がインドシナの歴史の表舞台に出てくるのは13世紀だ。タイ族、ラオ族など、そしてチュオソン山脈の東側ではキン族(ベトナム)が中国から南下、定着し、インドシナのいまの民族分布図の骨格ができた、といえるだろう。一方、そのほかの多くの民族はメコン川周辺の山岳部に次々と途中下車し、少数民族として生き続けてきた。いまさらながらメコン流域は、民族、文化、習慣が十字路のように交差する地域、と感じる。広大な中国と陸続き、さらにメコン川の水運があったことが、こうした民族の移動を促したのだ。

 そういえば、ベトナムの首都ハノイで開かれた米朝首脳会談に臨んだ北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長一行は、中国から陸路・鉄路でベトナム入りした。2日半がかりの長旅だ。航空機を使用すれば数時間で着くのに、と思う。
それよりも陸路を選ぶ、というのは警備、航空機の老朽化などの懸念があったかもしれない。が、「陸続きの気安さ」という島国の日本では分からない「皮膚感覚」が働くのだろう。

市場からの警告   
(2019年2月10日)

 最近、東アジア各地で大気汚染が深刻になっている。韓国のソウル首都圏では、「PM2.5」による大気汚染が過去最悪水準となる日があった。「PM2.5は中国から飛んで来た」との見方が韓国で強いが、中国政府が「韓国内で排出された」と反論。韓国側が再反論するという責任のなすり付け合いに発展している。
 ソウルの1日平均のPM2.5の濃度は、この日、1立方b当たり122マイクログラムを観測。注意報の基準となる75マイクログラムを大幅に超えて過去最悪に。「首都圏非常低減措置」が発令され、公共工事や公共機関の車両の運行が一部制限されたという。
 また、バンコクでもこの1月30日、大気汚染悪化により、バンコクの437校が休校となった。子供たちを、危険なPM2・5などを含む汚染スモッグから守るためである。バンコクでは「公害管理区域」として、基準を満たさないディーゼル車の利用や有害なゴミの焼却などは禁止されることになるという。

 問題のPM2.5は、日本では「微小粒子状物質」と呼ばれる。微細な汚染物質で、呼吸器系など健康への悪影響が大きい。粒子小さいので、長く大気中を浮遊しているために、発生源から離れた場所でも影響を受ける、というやっかいな存在だ。大気汚染の拡大・グローバル化である。この事態に目を向け、想起したいのは、国連が提唱する持続可能な開発目標(SDG's)の17の目標と169のターゲットである。グローバルビジネスの世界では、これに沿った事業活動でなければ、いずれ市場から退場させられかねないという危機感が浸透しつつある。
 
 SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だ。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年〜2030年の15年間で達成するために掲げた目標だ。17の目標のいくつかを紹介すると「すべての人に健康と福祉を」(3)、「エネルギーをみんなに そして」クリーンに」(7)、「住み続けられる まちづくりを」(17)などだ。
 日本でも、企業の工場などからの汚染物質の排出や騒音などがまき散らかされ公害が深刻だった。国連の掲げたSDGsは、地球環境をこれ以上悪化させないために、知恵と技術力で「発展と環境保全」の両立を視野に入れた「持続可能な開発」を目標にしたものだ。17の目標と169のターゲットに向かって事業が進められているかどうか、が企業・組織に問われているわけだ。まして、大気汚染を助長するような「後退行為」は許されるはずもいない。

  

 

 

枯葉剤 
(2019年1月25日)

 ベトナムのグエン・ドクさん(37)のニュースが何本か報じられた。ドクさんは、ベトナム戦争中、米軍が撒いた枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた。「ベトちゃんドクちゃん」の弟である。南部ホーチミンで、チャリティーのマラソンイベントに参加した、という。枯れ葉剤の被害者救済や啓発を目的にしたイベントで、障害のある現地の子供たちとともに、松葉づえをつきながら約3キロ、歩いた。
 ドクさんは、約30年前に日本の支援で分離手術を受けたことで知られる。障害児学校から中学校に入り、その後、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、病院の事務員となった。一方、兄のグエン・ベトさんは脳障害で寝たきりの状態が続き、2007年、26歳で死去した。
 二人が生まれたのは、中部高原のコントゥム省。この地域にも枯葉剤が多量に散布された。母親は、ベトナム戦争終結後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。枯葉剤がまかれた井戸で水を飲んだという。

 この深刻な後遺症については、実際に取材したことがある。ハノイに障害児たちの施設「平和村」があった。ここには、ベトナム戦争だけではなく、ベトナムのカンボジア侵攻(1978年)の際、カンボジア国境付近で残留枯葉剤を浴びたベトナム軍人の子どもたちがいた。当時、8歳だった男の子は、本人が直接、浴びたわけではないが、生まれつき両足のひざから下がなかった。父親は軍人として動員され、長期間、カンボジア国境のタイニンの密林地帯に駐屯。この周辺は米軍が南ベトナム解放民族戦線の拠点をたたくため、大量の枯葉剤をまいた、といわれる。この父親は、残留していた猛毒の枯葉剤を浴びたのだ。
 取材した施設「平和村」には、「難しいことでも意志さえあれば、実現できる」という、ホーチ・チ・ミンの言葉が、標語として掲げられていたのを記憶している。なんの罪もない、障害を持つ子供たちへの「建国の父」からの励ましである。この激励の言葉通りに困難を克服してきたのがドクさんだろう。
 ドクさんに関するもう一つの話題は、ホーチミンに日本風の飲食店をオープンさせたことだ。報道などによると、ドクさんは世話になった日本、支援者を大切にし、これまで40回以上訪日しているが、ベトナムでも交流する場を作りたいと考えていた。店では日本のうどんや、ベトナムの麺料理などが食べられるという。店名はずばり「ドク ニホン(Duc Nihon」。日本への思いが伝わってくる。

ヒンドゥー寺院 
(2019年1月10日)

 「ラーマ(ヒンドゥー教の神の化身)よ、万歳」。昨年12月、インドの首都ニューデリーで行われたデモで、参加者からこういう叫び声があがり、政府に対し、ラーマが誕生したとされる北部アヨディヤでの寺院建設が強く求めたという。
 インドでヒンドゥー至上主義者の活発な活動が収まらない。今春の総選挙を前に対立軸の宗教問題を前面に出すことで、モディ現首相の与党でヒンドゥー至上主義政党の「インド人民党」(BJP)の支持拡大を図る思惑があるとみられる。
 アヨディヤを巡っては1992年、16世紀に建てられたモスク(イスラム礼拝堂)について、ヒンドゥー至上主義者が「モスクができる前はヒンドゥー教寺院があった」と主張しながらモスクを破壊し、これに反発したイスラム教徒とヒンドゥー教徒の暴動が全土で発生し、計約2000人が死亡した。
 それでもこのモスク跡地への寺院建設の要求は収まらず、2014年の前回総選挙で、BJPは公約で寺院建設を掲げて政権を奪取した。それがいまだ実現していない。もし、今度の選挙でイスラム教徒が多く支持する野党の国民会議派が政権を担ったとしたならば、さらに実現が難しくなる、というのがデモ参加者の焦りの心情だろう。
 イスラム教徒はインドでは少数。当面は静観するとみられるが、突発的な衝突がきっかけで
宗教暴動につながる危険性はある。
 宗教暴動といえば、2002年1月に現地取材をしたことがある。ヒンドゥー教徒の乗った列車が
イスラム教徒に放火された事件をきっかけにした西部グジャラート州での暴動である。1,000人以上の死者が出て、軍が中心都市アーマダバードなど4都市に計約3,000人の兵士を配置したほどだった。
 死者の多くはイスラム教徒で、当時、現地から「グジャラート州の最大都市アーメダバード宗教暴動に関しては、陸軍部隊の増員などで一応、沈静化の方向に向かっている。 列車放火事件に対するヒンドゥー教徒の報復は、都市部では主にイスラム教徒が経営する商店やモスクなどが対象となった。
 一方、地方ではイスラム教徒の住居への襲撃が相次ぎ、一家全員死亡などの悲劇が起きている」という記事を送った。
 このグジャラート州といえば、インド独立の父で非暴力主義のマハトマ・ガンディーの誕生の地であり、ヒンドゥー・ナショナリストと言われるモディ首相が、暴動当時、グジャラート州を州政府首相として統治してきた因縁の地でもある。
 この暴動について、「モディ氏は、暴力を止めるのに対応が不十分だった」との批判がくすぶり続けているという。宗教対立そして暴動の火種はいまも残っている。



 

Asia-Watch Network

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