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北朝鮮とベトナム    (2018年12月18日)

北朝鮮・李容浩外相とベトナムフック首相

 北朝鮮の李容浩・外相が2018年12月初旬、ベトナムの首都ハノイでフック首相と会談した。北朝鮮は、これまでも社会主義を掲げながら市場経済の導入に成功した、ベトナムに熱っぽい視線を送ってきた。報道などによると、会談で李外相は「金正恩・朝鮮労働党委員長の
指導のもとで、経済発展を進めたい」と強調した。
 一方、フック首相は「投資や観光誘致策などについての経験があり、それを喜んで共有したい」と述べたという。
 李外相は、非公式に工業団地や農業技術の研究所も訪れて、企業経営者との意見交換などを行った。経済成長を続けるベトナムを参考にしたい、という北朝鮮の思惑がにじみ出ている。では、その「お手本」となるベトナムの改革開放路線とは、具体的にはどういうことなのか。

 ベトナムは、ベトナム戦争の終結、南北統一後の1978年、カンボジアに侵攻した。その翌年、中越紛争が起き、1981年には旧ソ連からの援助が打ち切られ、国際的孤立状態となった。国内では、南ベトナム時代から資本主義が染みついていた南部地域に対して性急な社会主義改造路線を推し進め失敗した。だが、これを教訓に重工業優先政策の転換、農業の振興、国際経済参入などを目指した「ドイモイ(刷新)」政策(1986年)を導入した。これが成功し、経済成長を実現させてきたわけだ。
 実は北朝鮮も2002年に配給制度や賃金・物価体系の見直しに踏み切っている。「社会主義経済管理方法」と銘打ち、改革開放路線への道筋を示していた。しかし、核・ミサイル問題などで国際社会から経済制裁を受ける「包囲網」が敷かれる中では、経済停滞からの離脱、経済成長の実現は難しかった。
 今回の会談でベトナム側は朝鮮半島の非核化に向けた動きを歓迎するとしたうえで、「経済発展の経験を共有する用意がある」と協力的だった。北朝鮮がベトナム戦争時に空軍パイロットらを派兵したことなどの歴史的な経緯もあり、北朝鮮が孤立する中でも両国の友好関係は続いてきた。李外相とフック首相は、それを確認したわけだ。
 しかし、北朝鮮が「ベトナム方式」の本格導入を目指したとしてもそれを支える基盤はぜい弱である。ベトナムには、コメが年3回収穫できる豊かなメコンデルタ・大地があり、流通・消費システムを改善すれば食糧不足は解決できた。南ベトナム時代に資本主義・市場経済を肌で知っていた人材も多く活用できた。
 北朝鮮はこうした条件を克服するため「メコンデルタの豊かさ」に代わるものを探している。その一つが日本からの大規模な経済協力・支援である。


カンボジア特別法廷 (2018年12月11日)

カンボジア特別法廷
 カンボジアの旧ポル・ポト政権下で起きた大量殺害を裁く特別法廷が、少数民族に対する集団虐殺などの罪で、元最高幹部、ヌオン・チア元人民代表議会議長(92)とキュー・サムファン元国家幹部会議長(87)に終身刑を言い渡した。二人はプノンペンから住民を強制移住させたなどとして、人道に対する罪で、2016年にも終身刑が確定している。裁判を迅速化するため、住民の強制移住と少数民族虐殺の罪を分けて審理を進めていた。
 終身刑はカンボジアで最も重い刑で、2012年2月に確定判決が出たトゥールスレン政治犯収容所の元所長カン・ケ・イウ被告と合わせ、計3人の幹部が終身刑となったわけである。
 ポル・ポト元首相とは義理の兄弟の間柄で、政権崩壊後もゲリラ戦を続けていたナンバー3のイエン・サリ元副首相兼外相は、すでに死去しており、膨大な犠牲者を出した「負の歴史」に一定の区切りがついた形だ。

 この判決のニュースに接し、新聞社の東南アジア担当特派員だった時代の記憶が鮮明に浮かびあがってきた。私がバンコクに赴任したのは、1998年4月。ポル・ポト政権が崩壊したのは1979年だったが、ポル・ポト元首相は、 タイ国境付近で生き延びていた。ポル・ポト元首相やその政権を支えた幹部、軍人らが、タイ国境付近を中心に利権を持ちながら隠然たる勢力を保持していた。国民和合を目指す新生カンボジアにとっては、「喉に刺さったトゲ」だった。
 そして、私のバンコク赴任直後に元首相は死亡した。その後、ポル・ポト派の勢力は衰退の道をたどるが、元首相の死は大虐殺の真相解明に打撃を与えることになる。つまりヌオン・チア元人民代表議会議長ら、生き残った幹部は 「すべてポル・ポト元首相の指示に従ってやったこと。自分は無罪だ」との責任逃れに終始することが予想されたからだ。
 そこで始まったのが、特別法廷だった。2001年、カンボジアの裁判所の特別部として設立され、国連の関与のもとで、2006年7月から運営を開始した。今回、その特別法廷により、約10年がかりで元幹部の終身刑が確定した。なぜ、当時、ポル・ポト元首相や元幹部らに「残虐な心」が形成されていったのか。罪の裏に潜む、人の心の見えにくい闇の部分は照らし出されたのか。責任の明確化、そこに至らしめた動機などの解明ができたのか。
 ポル・ポト政権は、農業を基盤とする閉鎖的な共産主義社会の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ、反抗する人々を多数処刑した。100万〜200万人の住民らが犠牲になったといわれる。
 この裁判・判決が「歴史の事実の開示」につながり、今後の「虐殺防止」に少しでも影響を与えることを願うばかりだ。


大運河構想(タイ) (2018年11月22日)


建設促進グループが公表した
タイ運河のイメージ図

 タイのプラユット首相は、マレー半島の地峡に大運河を建設するプロジェクトについて、国家安全保障会議などに検討するよう指示したという。プロジェクトは南部のタイ湾側ソンクラ県とアンダマン海側クラビ県をつなぐ全長120キロにおよぶ運河を建設しようというものだ。
 この周辺でのマレー半島を貫通する大運河建設計画は、これまで東南アジアをめぐるパワーバランスの関係もあって、浮かんでは消えてきた。「クラ運河」構想とも呼ばれた。
 タイ湾とアンダマン海に挟まれマレー半島が細くなっている地域一帯をクラ地峡という。関係者によると、ここに運河を通す計画は、約300年前にさかのぼる。
 19世紀になるとスエズ運河、パナマ運河 などの建設が行われ、クラ地峡に運河を建設する構想もこのころから本格的に議論されるようになった。しかし、世界大戦などで立ち消えになった。いまから思えば、この時期が建設の最大のチャンスだったのかもしれない。

 第二次大戦後も何度か計画が再燃、日本企業が関心を示したこともあったが、政権交代やほかのプロジェクト・インフラ整備の優先などで日の目を見なかった。
 仮にこの運河が実現した場合、マラッカ海峡を通過するのに比べて1日〜2日間の時間短縮になり、燃料節約、物流コストのダウンなどの効果が期待できる。その一方で、マラッカ海峡の海運上の重要性が減り、シンガポールやインドネシア、マレーシアの国際的地位の低下につながり、経済的な打撃が予想される。中東方面からのタンカーなどの主要航路に当たるマラッカ海峡だが、防衛・安全保障面でも周辺状況は激変するだろう。
 こうした事情に加え、運河建設のネックは資金確保だった。100キロ以上にわたり掘らなければならず、また、建設に伴う環境破壊への対応策など考えると、膨大な資金と工期が予想された。
 ここに来てクラ運河プロジェクトが再び注目された背景には、中国の打ち出した「一帯一路」構想がある。中国の積極的な開発援助の動きや、東南アジアへの経済進出がタイ政権の「心」を揺さぶったのだろう。そうは言っても、建設着手までには、さまざまな「壁」があり、今回も構想倒れになる可能性も大きい。
 ただ、マラッカ海峡の混雑緩和・安全航行が実現し、中国や日本だけでなく、東南アジア、南アジアの大経済圏の物流の促進、経済発展にとって大きなメリットがある。この大運河計画は、今後も人々の期待を集め続けることは間違いない。

港珠澳大橋 (2018年11月10日)

港珠澳大橋

 中国本土・珠海市と香港およびマカオを結ぶ「港珠澳(コウシュオウ)」大橋が完成し、開通式が行われた。曲がりくねった道路橋や海底トンネルを含め全長55キロに及ぶ世界最長の海上橋である。
 マカオはカジノが盛んなことから「東洋のラスベガス」ともいわれている。これを目的に訪れる人も多い。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録され、観光のもう一つの魅力となっているが、「香港のついでに立ち寄る」という方々も多かったのではないか、と思う。
 それはともかく、この大橋の完成により、中国本土、香港からの「人の動き」はさらに活発になるだろう。 マカオに何度か訪れたことがある。ポルトガル支配時代の古い建造物が目に入る。それに象徴されるように、そこには興味深い歴史の秘話があった。

 マカオは1887年にポルトガルへ正式割譲され、ポルトガルの正式な領土となった。その後、1984年に行われた英国と中国の香港返還交渉に続いて、1987年、ポルトガルと中国が返還の共同声明に調印、マカオの行政管理権は、1999年に中国へ返還され、マカオは特別行政区になった。
 ポルトガル人は、インドの西海岸のゴアを16世紀から20世紀半ばまで領土にし、アジア進出の拠点にしていた。そこから東南アジアの東ティモールを直轄統治していた。その後、ポルトガルのアジア拠点はマカオに移るわけだ。英国などに押されて没落していくポルトガルにとって、このマカオと東ティモールは、わずかに残されたアジアの貴重な海外拠点だった。
 そして、このマカオと東ティモール、という組み合わせが、思いがけない事態を招くことになる。1975年に、東南アジアの地域大国・インドネシアは、東ティモールに侵攻するが、避難民や亡命者がマカオに殺到したのだ。当時「東ティモールとマカオとの間にポルトガルの地下鉄(地下脱出ルート)が走っている」といわれたという。
 東ティモールがやっとインドネシアの占領から独立したのは2002年5月。21世紀最初の独立国だった。新聞記者時代、独立をめぐる東ティモールとインドネシアの葛藤・混乱を取材した記憶が鮮明に残る。独立が遅れた理由の第一は、ポルトガルが、第二次大戦後にアジア諸国の独立が相次いだ中でも東ティモールを手放そうとはしなかったからだ。その事情はマカオも同じだ。
 中国本土と香港・マカオを結ぶ大橋の完成でその「マカオの顔」はどう変わるのか。中国・珠海と香港、マカオの3地域は近距離にありながら海で隔てられたうえ、「統治者」がそれぞれ違い、交流は思うように進んでいなかった。大橋の開通により香港からマカオや中国・珠海に車に乗れば約30分で行ける距離になった。まさに「一衣帯水」である。



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